あの子が私の前に現れたのは、私が銀時と出会って間もない、ある雨の夕暮れだった。

 その頃、私が身を置いていたのは、とある山間に位置する小さな村の外れにあったあばら家で、そこで銀時とふたり、手習いをしたり、剣術の稽古をしたり、村の仕事を手伝って野菜を分けてもらったりしながら、何とかその日一日をしのぐ生活を送っていた。

 朝から降り続いていた雨がようやく小降りになっていた。あばら家はあちこちで雨漏りがしていて、銀時が文句を言いながら古い桶で雨水を受け止めようと部屋の中を右往左往していた。

 微笑ましい気持ちでそれを眺めながら、夕飯の支度をしていた私の耳に、かすかな泣き声が届いた。初めは村の子どもでも通りかかったのだろうかと思った。けれど、間もなく日も暮れようという時に村外れまでやって来る子どもは滅多にいない。
 外に出てみると、子どもがひとり、垣根のそばにしゃがみこんで雨に打たれて泣いていた。おかっぱの黒髪、つぎはぎのあたった古い着物、持ち物はなく、草履をつっかけた足は、ふくらはぎまで泥だらけだった。

 それが、だった。

 がなぜあのあばら家の前で泣いていたのかは分からない。おそらく、何らかの事情で親に捨てられたのだと思う。私が身寄りのない銀時を拾って育てていたのを見て、ここならば頼りにできるとでも思ったのだろうか。いろいろと推測はしてみたが、それはあまり意味のないことだった。

 を銀時とともに育てようと決めたのは、自然の流れだったように思う。

 とにかく泣き虫で甘えん坊で手を焼かされたものだった。これまでどんな人間に育てられてきたのかは分からなかったけれど、昼も夜もよく泣いた。何がそんなに悲しいのか、あの子は銀時と比べて言葉が遅かったので、あの頃が本当のところ何を感じていたのかは分からない。

 分からなかったけれど、私はひたすらあの子をなぐさめ続けた。ぽろぽろと静かに涙を流すを抱きしめ、頭を撫で、祈るような気持ちで毎晩一緒に眠った。それ以外にしてやれることは思いつかなかった。

 必死でなだめて、やっと泣き止んだと思った瞬間にまた泣き出してしまう。美しい蝶や花を見せてやっと笑ってくれたと思ったら、何の前触れもなくどんよりと落ち込んだ顔をする。何でもいいから話をしてくれないかと言っても、明らかに何か言いたそうな顔をしているのにむっと口をつぐんだまま首を横に振るばかりで、困惑したことも一度や二度ではない。

 それでも、と過ごす日々は、その一瞬一瞬、その全てが私にとって素晴らしいものだった。

 ずっと、人を殺して生きてきた。

 そんな私が、幼い子どもを育てることになるだなんて想像したこともなかった。

 誰よりも長い時を生きている私も、こんなに小さな人間とともに生きるのは、生まれて初めてのことだったのだ。



 私があの子をなぐさめているとき、銀時は遠くから様子をうかがうばかりで決してそばには近寄らなかった。

 思えば、銀時もはじめてだったのだ。同じ年頃の人間と出会うのも、ひとつ屋根の下で共に暮らすことも、ましてや、同年代の友達を持つことも。

 この頃の銀時は、ひとり戦場で生きていた頃の緊張がまだ完全にはほどけておらず、私もまだ完全に信頼されてはいなかったと思う。誰にも頼らず、甘えず、たったひとりで生きてきた銀時の信頼を得るのは、根気のいる仕事だった。

 私は銀時の前では稽古をするとき以外には決して得物は持たなかったし、眠るときも、銀時が決して手放さない錆びた刀の真横で眠ってみせたりはしていたけれど、それでも長い時間がかかったように思う。

 今思えば、銀時は、私があの子をなぐさめ、あやしているのをよく観察していたのだろう。

 何の力もない小さな人間の子ども。泣き虫で甘えん坊の女の子。私にかかれば人差し指一本でその命を取ることはあまりに容易い。

 儚い命を前にして、私がどんな風に振る舞うのか。本当に信用できる人間なのか、そんなことを銀時は計っていたのだ。

 私が泣きながら眠るあの子を抱いて眠る夜、銀時は刀を抱いたままひとり縁側に座って夜通し星を見上げていた。

 まるで、番犬のようだった。外敵から私とあの子を守ろうとしていたのか、それとも、私があの子に手をかけやしないかと目を光らせていたのだろうか。真相は、今となってはもう分からない。



 こんなことがあった。

 私がひとり、部屋で書き物をしていた時、私がそこにいると知ってか知らずか、銀時とがふたり、庭に出て話をしていた。

 一緒に暮らしているというのに、あの子達が私を抜かしてふたりきりになったのは、あの時が初めてだったように思う。私は新鮮な気持ちで驚いて、じっとふたりの声にきき耳を立てた。

「お前、あんまりめそめそするのはもうやめろよ」

 銀時が厳しい口調で言う。
 は今にも泣きだしそうな声で答えた。

「だって、」
「だってじゃねぇよ。いつまでもいつまでも泣いて甘えて、恥ずかしくねぇのか?」
「だって……」

 の声が涙で滲む。この頃のが、年の割に口達者な銀時に敵うとはとても思えなかった。一方的な展開が予想された。

「松陽はな、お前のために一生懸命なんだよ。それなのに悪いとは思わねぇのか?」
「……一生懸命?」
「松陽はいい奴だ。俺達みたいな行き場のない子どもを拾って育てるなんて、普通の奴ができることじゃねぇんだぞ」
「それは、私もそう思うけど」
「だったら、せめて松陽の邪魔にならねぇだけの努力はしろよ。もしあいつに嫌われたら、お前は今度こそ行き場所を失うんだぞ」
「そういうあなたはどうなのよ?」
「俺がなんだよ?」
「先生と、よく喧嘩してるじゃない」
「あれは喧嘩じゃなくて稽古だ。剣術のな」
「なんのためにそんなことしてるの?」
「強くなるために」

 そう宣言した銀時の声は、決然とした空気をまとっていた。私も初めて聞く声だった。

「松陽は、俺が初めて勝てなかった相手だ。俺は今までどんな大人にも負けたことなかったんだ、負けっぱなしは悔しいからな」

 は、いまいちピンときていない様子だった。

「? そうなの」

 ぽかんと目を丸くしていると、ぎらぎらと二つの瞳を輝かせている銀時。そんなふたりが向かい合っている様はなかなか滑稽で、笑いを堪えるのが大変だった。

「松陽はすげぇ強い奴なんだ。お前なんか、殺そうと思えばひとひねりだぞ」
「……私、松陽先生に殺されるの?」
「いやだから、いつでも殺せるのに殺されてねぇことの意味を考えろって言ってんだよ! なんで分かんねぇかなもう!」

 今にも泣きそうな顔をして怯えるの前で、銀時は地団太を踏んだ。その様子がかわいらしくておかしくて、大声で笑ってしまいそうになった。腹を抱えてなんとか我慢した。

「タダ飯食らいのガキなんか、いつ殺されてった文句言えねぇんだ。そんなことはどこにでもある話だ。けど、松陽はお前を食わせてる。それをちゃんと、信じてやれよ」
「何を言ってるのかよく分からない」
「じゃぁ、そうだな。あいつ、髪とかずるずる長くて女みたいだろ? 母ちゃんの代わりだとでも思ってやれよ」
「……!」

 無言の内にも、が銀時の言うことを納得した気配が感じられて、私は内心複雑な思いがした。ふたりを育てることを心から楽しんではいたけれど、自分を母親代わりに思ってほしいとは思っていなかった。自分を女っぽいと思ったこともない。あまりに長い年月を生きてきたので人ならざるものという自覚はあったが、男とか女とかは気にしたことはなかった。

 生き延びるために、子どもは子どもなりに、いろんなことを考えているのだなと思った。

 私はこのあまりに長い生をどうにかして終わらせたくて四苦八苦しているというのに、あの子達はその真逆の道を必死に探っている。

「それでももし、松陽がお前を殺そうとしたら、その時は、俺がお前を守ってやるよ」
「いつも負けてばっかりじゃない」
「今はまだ敵わねぇけど、いつか絶対にあいつに勝つ。俺は誰よりも強くなりてぇんだ。そのために、俺はあいつとここにいるんだからな」
「絶対に? 約束してくれる?」
「あぁ、約束する。だからもう、めそめそ泣くのは止めろよな」

 は無言で頷いた。

 そして私もひっそりと、ふたりからは見えないところで頷いた。

 いつかそんな未来が訪れたら、私は銀時の剣で死にたい。





 松下村塾という名前の寺子屋を作ると決めた時、共に焚火を囲んでいた私の最初の弟子はちょうど第二次成長期を迎えた少年だった。だからてっきり、それくらいの子ども達と共に様々なことを学んでいくつもりでいたのだけれど、私が思うよりずっと小さな子ども達を育てることになってしまった。

 はじめ、銀時とのふたりだけだった教室も、わずかずつ人数を増やしていった。お金がなくて寺子屋に通えない子どもがほとんどだったけれど、やがて、家を勘当された小さな侍が道場破りにきたり、有名な藩校で神童ともてはやされていた孤児の子までもが仲間になった。

 こんな未来は、あの頃は少しも予想していなかったことだった。

 子ども達とともに過ごす日々は驚きに満ち溢れ、信じられないほど濃密で楽しくて幸せで、私は毎日笑ってばかりいた。先生と呼ばれる身でありながら、子ども達がどんな悪さをしても真剣に叱ってあげることができなかった。あんまり笑ってばかりいるから、子ども達にはまるで七福神の恵比寿様のようだと笑われたけれど、私にとってそれ以上の誉め言葉はなかった。


 幸せな、幸せな日々だった。


 今はもう、遠い昔の話だ。











20180212