兎が死んだ。

 野兎だ。淡い茶色の毛並みをした、耳の中の桃色がきれいな兎だった。私が里山へ山菜取りに行くと、決まって顔を見せてくれたかわいい兎。

 高いところに手を伸ばしてタラの芽を摘んだり、腰を屈めてワラビを摘んだりしている私を、珍しいものでも見るように首を傾げて眺めているのがおかしくて、背中を撫でさせてくれないかと思って手を伸ばすと、いつもさっと身をひるがえして逃げてしまったけれど、つかず離れずそばにいて、私を見守ってくれているようでうれしかった。

 友達だと思っていた。誰にも内緒の、私だけの友達。

 大好きな友達。

 大好きな友達が死んでしまった。

 兎は人里にほど近い場所で、綺麗な茶色の毛並みを真っ赤な血で汚して死んでいた。野犬にでも襲われたのだろうか、私が兎を発見したときにはもう事切れた後で、空虚な瞳に空の青色が映っていた。

 初めて触れた兎の体は固く冷たく、毛並みは固まった血でごわごわになっていて、思わずその手を引っ込めた。あんなに撫でさせて欲しいと思っていたのに。あの小さくてきれいな体を抱きしめて、毛並みに頬ずりをしたいと思っていたのに。まるで熟れたての桃みたいにきれいな耳は、触ったらどんなに気持ちがいいだろうと思っていたのに。あんなに、夢見るほどにあこがれたのに。

 いざとなったら直視することすらできなかった。赤い血の色、だらりと垂れた手足、ごわごわの毛並み、胡乱な瞳、くたびれた耳。

 涙が止まらなかった。

 このまま捨て置くのでは兎の不幸にさらに拍車をかけるような気がして、せめて墓でも作ってあげようと穴を掘った。どんなに自分を奮い立たせても、もうその命のない体に触れることができなかったので、棒切れでつついて穴まで転がして埋めた。土をかぶせて、その上にどんぐりを植えた。

 手を合わせた。

 大好きだった兎。いつも一緒にいてくれた兎。山の中で、私をいつも見守ってくれていた兎。

 かわいそうな死に方をしたのに、撫でてあげられなくて、抱きしめてあげられなくてごめんね。でも、大好きだったのは本当なの。本当なのよ。どうかこれだけは信じていて欲しい。

 松陽先生が言った。

 どこからか、私のしたことを全て、見ていたようだった。

「私が死んだら、はきっとそうやって、私の墓前で祈ってくれるのでしょうね」

 どうしてそんな縁起でもないことを言うの。恨み言のひとつも言ってやろうかと思ったけれど、松陽先生が何か、あこがれるような微笑みを浮かべて兎の墓を見ていたので、何も言葉が出なかった。

 先生はときどき訳の分からないことを口走る。それについて詳しい説明を求めても無駄だ。どうせ私が分かるような説明はしてもらえず、上手にはぐらかされてしまうことは分かっていた。

 だから何も、言い返せなかった。

 今思えば、あの言葉は先生のただひとつの願い事だったのだろう。

 先生。

 ごめんね、先生。

 私は今も先生の願いを叶えてあげることができないでいる。



 その後しばらくして、里山に兎が戻った。あの兎と同じ茶色の毛並みの兎が四匹。きっとあの野兎の子ども達だ。この兎たちも、私が山菜を取るのを不思議そうに眺めては、背中を撫でさせてもくれずに、つかず離れずそばにいて私のことを見守ってくれている。

 あの兎と、同じように。





20170918