おかしな話だと、はじめから思っていた。
この私に縁談?
身寄りのない独り者で、収入はもっぱら弟から送られてくる仕送りだけが頼りで、貯金もない。しかも病持ちでひとりでは遠出もできないこの私に、えんだん?
なに、それ。近頃江戸で流行りの甘味か何か?
詳しく話を聞けば、それは甘味どころか食べ物ですらなく、江戸で一番の貿易商、転海屋・蔵場なんとかという人が、私を嫁にと請うているのだという。
青天の霹靂、とはこういうことを言うのだろう。突然降って湧いてきたそのおかしな縁談は、私の知らぬ間にあれよあれよという間に話が進み、いつの間にか引き返しようもないところまでまとまってしまったのだった。
これが夢物語なら、いばらの城の中で眠る姫を白馬に乗った王子様が迎えにやって来て、ふたりは末長く幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたしと終わるところだけれど、現実はそんな夢物語のように甘くも平和でもないことを、私はちゃんと知っている。
私は姫ではなく、貧乏と病を理由に婚期を逃した寂しい独り者だ。世の中の酸いも甘いも分かっている。
真っ赤な薔薇の花束にも、甘く囁かれる愛の言葉にも、プレゼントの山にも、豪華な食事にも結納の品にも、婚約指輪にも、その全てに裏があるのに決まっている。それが分からないほど、私はか弱く無知で純粋な女ではなかったけれど、村中を巻き込んだド派手なプロポーズ大作戦を前にして、それを無下に断る勇気は私にはなかった。
だって私は貧乏で、病持ちで、婚期を逃したひとりぼっちの女だったから。
まぁ、こんなものなのかなぁと思った。
私の人生。
早くに親を失って、年の離れた可愛い弟を一生懸命に育ててきた。体が弱いのは生まれつきだ。丈夫な体に産まれて、愛する人と結ばれて子どもを作って育てて、そんな人生に憧れたこともあったけれど、ないものねだりをするにももうとっくに飽きていた。
弟がたまに寄越す手紙を楽しみに、余生を穏やかに過ごしていければいいと思っていた。
ご近所のみなさんはみんな親切だったし、春には桜が咲くし、夏は近くの沢に蛍が飛び交う。秋の紅葉、冬の雪。大きくてそれでいて静かに、毎日表情を変えていく自然の中で生きていくことは驚くほど飽きの来ない日々だったし、たまに庭先にやってくる野良猫一家はまるで家族のように愛おしかった。
そんな静かな生活に終止符を打って、婚約者の暮らす江戸へ嫁ぐだなんて、少し前までは考えもしなかった。
人生、なにが起こるか分からないものだ。
江戸へ向かう荷造りをしながら、何種類もの薬を小分けにして詰めた巾着をみると、死神に背後を取られたようなうすら寒さを感じて気が遠くなった。
そう長くは生きられないだろうと、医者は言った。
蔵場は、病気を治せる医者を探しているから一緒に病を乗り越えようと言ってくれたけれど、本当はその頭の中に医者の「い」の字もないことは分かっている。
もうすぐこの世から消えて無くなる私を嫁にとって何をする気なのかは分からなかったけれど、考えてみたところで興味のないことには食指が動かなかった。どうでもよかった。蔵場が何を企んでいようが、今更私に失うものなど何もない。どうせもうすぐ死ぬ身だ。
けれど、私は江戸へ行く。
江戸へ、行く。そう考えただけで、武者震いがして背筋がぴんと伸びた。
そう、江戸へ行くの。
あの時連れて行ってもらえなかった江戸へ、私は自分の足で、行くの。
病持ちの貧乏人で、何か裏のある企みのために妻に娶られる私だけど、誰のためでもなく、私は私のために江戸へ行く。
江戸へ行けば、あの人達に会える。
故郷を出たっきり、一度も顔を見せに来ない薄情な人達に。
手紙には都合のいいことばっかり書いて私を安心させようとするかわいい弟。
どうせ好き勝手なことばかりして周りの人を困らせてばかりいるくせに、大好きな私の前でだけは純朴な男の子の顔をする、世界で一番憎たらしい弟。
あの人の近況をひとつも教えてくれない冷たい弟。
でも、いいの。だって私は江戸に行くんだもの。
みんなに会えるのだもの。
きっと、会うのは最後になるでしょう。
でも会えるんなら、もう、他のことはなんだっていいの。
何年かぶりに会ったあの人は、私が好きになったあの人とはまるで別人になっていた。
長かった髪はばっさり切り落とされ、肩の凝りそうな黒い隊服を着て、咥え煙草なんかしちゃって、私と目が合っただけでどぎまぎして視線をそらしてしまうあの可愛らしい青年はどこへ行ってしまったんだろう。
あの人は変わったのね。
まぁ、私も変わったけれどね。
何せ、あなた達に会うためだけに病の体を押して遠路はるばる嫁ぎにきたのよ。私も一緒に連れて行ってと、他人に自分の夢を押し付けてばかりいたあの頃の私とはもう違うの。
死ぬ前に、あなたたちに会えて本当に良かった。
さんに会えて、本当に良かった。
「みんな、仕事で出ています。ごめんなさい、私なんかがいて」
どうして
さんが謝るんだろう。
さんは何も悪くないでしょう。どうせあの人達に頼まれて、仕方がなく来てくれたんでしょう。今にも死にそうな赤の他人の枕元になんて、責任も取れないのに居たくないわよね。まったく、損な役回りよね。
「……謝ることないのに」
「……他に何を言えばいいか分からないわ」
そうよね、
さん。私も何を言ったらいいのか分からない。
さんとはあまり仲良くできなかった。なんだかお互いに遠慮しちゃったわね。どうしてかしら。一度くらい喧嘩でもしていれば何か違ったかしら。
あぁ、そうね。私はあなたと喧嘩をしたかった。
だって私、喧嘩だなんて生まれて一度もしたことがないのよ。いつも良い子のお面を被って、一生懸命弟を育ててご近所に愛想を振りまいて、よくできた物わかりの良い娘を演じてばかりいたの。そんな私を、私はとても好きだったんだけれど、ついに姉弟喧嘩のひとつもしなかった。もったいないことをしたわ。あの小憎たらしくて最高に可愛い弟とする喧嘩はきっと無茶で壮絶でこの上なく楽しい喧嘩だったでしょうね。取っ組み合いの喧嘩とか、もっと子どもの頃にしておけばよかったわね。
「……
さんとは、もっとちゃんと話したかった」
「何を?」
「いろんなことを。……そーちゃんのこととか、十四郎さんのこととか」
さん。私はあなたと喧嘩をしたかった。ドラマで見るような意地の悪い女の子みたいに、あの人を取り合って
さんと喧嘩をしてみたかった。でも、もうあまり時間がないみたいで悔しいわ。
「みんなを、よろしくね。……本当に良い人達だから」
「えぇ、知ってるわ」
あ、この人今、私の最後の願いを鼻にも引っ掛けずに受け流した。
ちょっと面白くない。
「……
さんは、十四郎さんのことが好きなのよね?」
「前に答えた通りよ」
あ、はっきりしたことを言わない。
さんてば、なんて怖い顔をしているの。目が座っているし、唇は尖っているし、興奮しているのか頬が赤い。私、何か失礼なこと言ったかしら。でもあなたが死に際の願いを聞き流そうとするから悪いのよ。
「……どうか、大切にしてあげてね。あの人ああ見えて少し、気にしすぎるところがあるから」
「どうしてそんなこと言うの?」
「……どうしてって?」
突然、
はミツバの手を掴んで力任せに握りしめた。
「あなただって土方さんのこと大切なくせに、どうしてそんなに簡単に私なんか認めるの?」
熱い手だ。それとも、私の手が冷たすぎるのかもしれない。力が入りすぎていて少し痛い。
ちょっと。私、死にかけの病人なのよ。そんなに真剣に怒ってくれるなんて、嬉しくって泣いちゃいそうになるじゃない。その手を握り返したかったけれど、もう体にうまく力が入らないのが悔しくてたまらない。
「……だって、十四郎さんがあなたを好きなんだもの。仕方がないわ」
「でも、死んだ人ほど心の中で美しいっていうじゃない」
ミツバの頭のてっぺんに、雷が落ちたような衝撃が走った。
なんて酷いことを言う人だろう。ショックのあまり、笑いが込み上げた。そうよ、私はもうすぐ死ぬの。あなたに言われなくても分かってるわ、私の体のことだもの。
「私はあなたに敵わないわ」
あぁ、
さん。私はあなたと喧嘩をしたかった。
喧嘩をして仲直りをして、ふたりで一緒に甘味でも食べに行きたかった。大好きなあの人達の悪口を肴にしてお酒が飲めたらきっと楽しかったわね。ふたりで朝までおしゃべりするの。笑って泣いて怒って愚痴を言い合って、遅い朝までたっぷり眠って、そして、またねと言ってさよならをするの。
でも、あなたにまたねって、私もう言えないのよ。
だから最後にひとつ、とっておきの意地悪をしてあげる。
「……
さんは、十四郎さんのこと名前で呼ばないの?」
見上げた
さんお顔が、ぎくりとして強張った。
なんだ、やっぱり気にしてたんじゃない。あぁ、こんなちっぽけな悪口を言っただけで泣かないで。私がすごく悪いことを言っちゃったみたいじゃない。これじゃ喧嘩にならないわ。
ミツバは精一杯の力を振り絞って、
に手を伸ばす。涙に濡れた冷たい頬は、けれど確かに生きている人の熱を感じさせてくれた。
生きているということは、なんて素晴らしいことだろう。もうすぐこの世から旅立っていかなければならないなんて、私はなんて惜しいことをするんだろう。
でも、もういいの。
死ぬ前にもう一度みんなに会えたから。
さんに私の夢を託せるから。
さん、これは私の意地悪よ。とっても難しいことをあなたにお願いするわ。
「……十四郎さんのこと、幸せにしてあげてね」
あの人を、幸せにするの。ひとりよがりで、不器用で、剣にばかりかまけている人。マヨネーズばっかり食べて不摂生をして、今じゃ煙草も吸ってるんでしょ、体には気をつけてあげてね。いざとなるととても弱いところがあるから、そんな時は力になってあげてね。たとえ拒絶されても、無理矢理にでもそばにいてあげて、どうかひとりにしないであげてね。
誰かを幸せにするって、きっととても難しいことだわ。思い通りにいかなくて、辛くて苦しくなることもたくさんあるでしょう。でも、そんな苦労ができるのも、あなたが生きているからなのよ。
さん。私はあなたと喧嘩をしたかった。
でもそれはできなかったから、せめて私の願いだけでもこの世に置いていかせてね。
「そうしてあなたも、幸せでいてね」
文句があったら、いつかあの世で聞いてあげる。
20170527