松平が真選組屯所にやってくるのは、いつも事前連絡なしの抜き打ちだ。黒塗りの車が屯所の門の前に横付けされると、屯所は突然の嵐に見舞われたように大騒ぎになる。それはもう、土砂降りの雨、いかづち、大風。そんなもののように松平の存在は真選組にとって大きく絶対的で、有無を言わせない。





誰かにとってはありふれた虹






 藍色の花模様の湯呑、磨き上げられた漆の茶托、鮮やかな若草色の茶には真ん中に茶柱が浮かんでいる。

 ちゃぶ台の前に腰を下ろした松平片栗虎はぽかんとして、危うく咥え煙草を取り落としそうになった。

「すいません。近藤局長も土方さんも留守なんです。もう間もなく戻ってまいりますので、少々お待ちくださいね」

 盆を膝の上に乗せた女は、人の良い笑みを浮かべて朗らかに言い、不躾な視線を寄越す強面の松平にもまるで怯む様子もない。

「ここへ来て、茶ぁ出されたのは初めてだ」

 新種の動物を発見した探検家のような気分で呟いた松平に、女は軽やかな笑い声を上げる。

「まぁ、そうでしたか。お口に合えばいいんですけれど」





 浪士組から名を改め真選組を名乗ることとなった男達は、浪士組屯所としていた廃寺から居住を移すこととなった。浪士組の志願者を集めるために使われた廃寺は、真選組が幕府直属の機関として召し上げられために隊士が増え手狭になったのだ。

 松平が真選組にあてがったのは、攘夷戦争で主を失った大名屋敷だった。長い間放置されていたそこは野良犬や野良猫の住処となり、また近所に住む子ども達の格好の遊び場にもなっていて荒れ果てていた。だが、真選組が幕府直属の機関として格好の付く大きな屋敷は他になく、松平も小指の甘皮ほどの申し訳なさを感じながら近藤達をその元大名屋敷に押し込んだのだ。田舎上がりの粗野な男ばかりの集団だ。住む家が多少古く壊れかけていても、雨露しのげる屋根の下で眠れるだけましだろう。
 
 そう思っていたのだが、一カ月ぶりに屯所を訪れてみて驚いてしまった。まず玄関に入って嫌な臭いがしなかった。初めてここへ来たときは土埃と黴と野良動物の糞の臭いが立ち込めて一分も耐えられないほどだったのだが、勇ましい虎の絵が描かれた衝立には埃ひとつ積もっておらず、磨き上げられた床は覗き込めば顔が映りそうなほどだ。庭は美しく整っているというほどではなかったが、落ち葉も落ちておらず、洗濯場には清潔な着物が幾重にもはたはたとはためいている。泥と垢まみれで最後に風呂に入ったのはいつのことなのかも分からない男達だらけだったのに、廊下ですれ違いざま頭を下げるどの隊士達も石鹸の良い匂いをさせている。

 いったい、何事だと首を傾げる松平の前に現れたのが、この女だった。





 松平はずずずと茶を啜り、サングラスの向こうからじっと女を値踏みする。

「お姉ちゃんは、ここで働いてんのかい?」

 女は背筋とぴんと伸ばし、笑顔のまま答えた。

「はい。もうひと月になります」
「どんな仕事を任されてる?」
「炊事や掃除、洗濯……、いわゆる女中の仕事をさせていただいています」
「女中って、まさかここに住み込んでいるとは言わねぇだろうな?」
「えぇ、離れをお借りしていますが……」
「年頃の娘がなぁにを馬鹿な事をしとるんだ!!!」

 思わず腰を浮かせて怒鳴った松平に、女は背中をのけぞらせて目を見開いた。

「親は知ってるのか? あぁ? こんなこと親父が知ったら泣くぞ!?」

 松平は女の肩をぐいと掴んで迫る。女はさすがに勢いに押されて、笑顔を引きつらせた。

「あ、あの、私に親はいませんし、天涯孤独の身で……」
「ここにいる男どもがどんな奴らか知ってるのか? 田舎上がりの乱暴者ばかりだぞ? 女と見りゃぁ片っ端から襲ってきたような男達ばかりだぞ? まさかもう慰み者にされてんじゃねぇだろうな? 嫁入り前だろうお前? 俺が父親だったらすぐに家に連れて帰るぞ……!」
「いえ、ですから私に父親はいませんし、それに皆さんとても親切にしてくださってますから……」

 女は必死になだめすかしたものの、松平はしまいにはおいおいと声を上げて泣き出した。自分の娘とそう年の変わらない女子が、こんなむさ苦しい男所帯にひとり住み込みで働くなど、なんて酷い仕打ちだろう。それに、松平は身寄りのないひとりぼっちの女の健気な姿に胸を打たれてしまった。年を取るとこういう苦労話に弱くなってしまっていけない。

 ひとしきり泣いて気を落ち着けた松平は、温くなった茶をすすって女と向き合う。女は子どもにするように松平の背を撫で、穏やかに語った。

「こんなにご心配いただいていたみいります。でも、皆さん本当に良くしてくださってるんですよ。松平様が心配なさっているようなことは何もありませんから、どうぞ安心してください」

 松平は女の手を取ると、両手で挟み込むようにしてぽんぽんと手の甲を叩いてやる。

「何か、困ってることがあったら俺に言うんだぞ? 何せ俺は警察庁長官だからな、大概のことはどうにかできる。ここの連中にとっちゃ、どうあっても頭の上がらねぇ目の上のたんこぶだ。奴らに何かされたら助けてやれるからな」
「えぇ。その時はぜひ頼らせていただきます」

 松平はうんうんと頷いて、改めて部屋を見回した。

 広くはないが、掃除の行き届いた清潔な応接間だった。床の間は拭き清められ、床脇には一輪挿しに野の花が活けられている。以前ここを訪ねた時は、穴だらけでぼろぼろの障子から隙間風がぴゅうぴゅう吹き込んでいたものだったが、今は全てふさがっていた。障子を全て張り替える金がなかったのだろう、破れた箇所に紅葉の形に切った障子紙を当てていて、日に透かして見るとさながら風に舞う紅葉の影が障子に写り込んでいるようだった。
 
 こんなに繊細で美しい手仕事をあの男達だけでやったとはとても思えない。

「お姉ちゃんは、本当に良くやってくれてるんだなぁ」
「皆さんに助けていただいてるんです」
「けど、お姉ちゃんがいなかったら、あいつらはこんなに人間らしい生活をすることもできなかっただろうなぁ」

 松平にとって、真選組は拾ってきた野良犬のようなものだった。幕府側がちらつかせた餌に寄ってきた犬と、そうでない犬。攘夷浪士を取り締まるために発案された奇策が招いた結果は、幕府側についた犬共を幕府が金を出して養うことだった。そうなる前に飼い殺しにされるのがオチだと思っていたのだが、真選組は松平の予想を超えて八面六臂の活躍を見せている。ただの犬だと思っていた男たちが、いつの間にかこんなにも人間らしく、そして、侍らしくなっていく。それはこの女の力によるところがとても大きいように思えた。

「お姉ちゃん、名前はなんていうんだ?」
と申します」
ちゃん。これからも、あいつらのことをよろしく頼むな」

 松平の言葉に、は力強く微笑んだ。

「はい。もちろん」





 出先から戻ってくるなり、松平の来訪を聞いた近藤と土方は慌てて身なりを整えて応接間に急いだ。

「ったく、なんであの人は連絡もなしに来るかなもぉう!!」

 近藤は唇を尖らせて悪態をつく。
 その後ろを付いていく土方は、冷静さを装って言う。

「抜き打ちで来るから意味があるんだろ。俺達のことをまだ信用してねぇって証拠だ」
「一体何の用だと思う? 俺達また何かやったかな?」
「何かやったんなら呼び出し食らうのが筋じゃねぇのか?」

 応接間の前について、ふたりは顔を見合わせて息を整える。目を見合わせて声をかけようとしたとき、部屋の中から漏れてくる声にふたりは顔を見合わせた。

「この茶器はどうしたんだ? 随分立派なもんじゃねぇか?」
「この近くにあった料亭がお店を閉めるときに譲っていただいたんです。お恥ずかしい話ですけど、屯所で使っている食器は全ていただきものなんですよ。実をいうとこのちゃぶ台も粗大ごみに出されそうなところを譲っていただいたんです」
「そうなのか。どうりで金もねぇはずなのに随分立派なもんを使ってると思ったぜ」
「皆さん、やっぱり刀や武器にお金をかけたがるので、生活用品はどうしてもおろそかになりがちなんですよね」
「そいつぁいけねぇな。よし、俺から会計方に言っておこう。もう心配いらねぇぞ」
「本当ですか? 助かります。なかなかこういうことは私から言いにくくて……」
「今まで悪かったなぁ。これからは何でも俺に言えよ。遠慮することは少しもねぇからな」

 近藤と土方はわけが分からず顔を見合わせたまま固まった。松平の相手をしているのは、ついひと月前から屯所で家政婦の仕事をしているだが、なぜ松平とこんなに打ち解けているのだろう。

 声をかけるタイミングを逃してしまったふたりは、部屋から漏れ聞こえてくる声に耳を澄ませたまましばらく動けなかった。





「ったく、お前らときたらちょっと目を離した隙に勝手なことしてくれやがって」

 鼻から煙を吐き出しながら松平は言い、その正面に座った近藤と土方はしおらしく体を小さくした。

「勘弁してくれよ、とっつぁん。家政婦さんひとり屯所に置くくらい、どうってことねぇだろ?」

 近藤が苦笑いをして言う。

「俺達だけじゃ飯の用意もままならねぇからな。店屋物にばかり金欠けるよりは経済的だろ」

 土方はもっともらしく大きく頷きながら言う。

「そういうことが言いてぇんじゃねぇんだよ俺は」

 松平は二人の言い分には耳を貸さず大声を上げ、江戸に上ってきてまだ間もないふたりの若造をヒヤリとさせた。

「こんな男所帯に女ひとり住まわせて、何かあったらどうするつもりだ?」
「何も起こらねぇように策は講じてる。隊士なら誰でも、離れの半径三メートル以内に近づいただけで切腹だ」
「それに、ちゃん自身も気を付けてくれてるよ。必要以上に表に出てこないしな」
「お前らは本当に青いな。女がここにいるってだけで変に勘繰る奴はどこにでもいるんだ。市井にも、警視庁にも幕府にもな」
「だからそれは……」
「何かあったらと言ったがな、それはもう起きていると思え」
「どういう意味だよ?」
「ここに女がひとり住んでいるというだけで、他人はお前らがちゃんを回してると考えるし、仮にも幕府直属の警察組織にそんな噂が立つなんて、上が許すと思うか?」
「それはいくらなんでも考えすぎなんじゃねぇのか? とっつぁん」
「お前らは考えすぎるくらいでちょうどいいんだよ。得体の知れない浪人上がりの連中を幕府がそう簡単に信用すると思うな。特別警察という名にあぐらをかくなってことだ」

 近藤は気を引き締めて、松平の言葉をぐっと飲み込む。真選組が置かれた立場はそれほど危ういものなのだ。

「つまり、上の命令に忠実に任務を遂行しつつも、女には手ぇ出さねぇで品行方正に振る舞って誤解を招くようなことはするなってことだな」

 土方はそう言うと、意を決したようにすっくと立ち上がった。

「この屯所は、ここまで死に物狂いでやってきてやっと手に入れた場所だ。それが女ひとりのせいでがたがた言われるなんざ本末転倒だろ」
「おい、トシ、お前もしかして……」
ちゃんを解雇する気になったか?」
「だが、ちゃんは炊事に掃除に、本当によくやってくれているんだぞ!? それを追い出すなんてあまりに酷じゃねぇか!」

 松平の鋭い視線をいなして、土方は答える。

「そんなことは分かってんだよ、落ち着いてくれ、近藤さん。とっつぁん、すまねぇがこの件、俺に預けちゃもらえねぇか?」
「どうする気だ? トシ」

 土方は思案気な顔をして目を伏せると、何か決意したような目で明後日の方を向いた。

「要は、隊士達がに手ぇ出さねぇようにしたらいいんだろ?」

 松平と近藤が顔を見合わせる間に、土方は縁側から部屋を出て行ってしまった。
 この時の松平には、土方がどんな策を講じているのかさっぱり分からなかったのだが、それは意外と早く松平の耳にも届く結果となった。





 ここからさらにひと月後、予想していた真選組にまつわる悪い噂が聞こえてこないことが気になって再び屯所を訪ねた松平は、道場で稽古に励む隊士達を眺めながら言った。

「あれからどうだ?」

 近藤は苦い顔で笑う。

「まぁ、トシが上手くやってくれてるよ」
「上手くって、どういうことだ?」

 首を傾げた松平に、近藤は顎をしゃくって道場の外を示した。
 そこからは屯所の母屋が見通せて、ちょうどそこに土方とがいた。土方は部屋の中で刀の手入れをしていて、縁側に正座したと何やら話し込んでいる。何を話しているのかは声が届かず分からない。

「なんだありゃ?」

 松平の素っ頓狂な声に、近藤は声を上げて笑った。

「俺も驚いたよ。まさかトシがちゃんを、なんて思ってもみなかった」

 真選組に悪い噂が立たなかったわけを理解して、松平は呆気に取られてしまった。まさか、真選組を守るために土方があそこまでするとは思わなかった。隊士達の風紀を守り、悪い噂が立たぬようにするために、真選組副長である自分のそばにを置いておこうというのだ。松平に言わせれば、正気の沙汰ではない。

「あんなのがいつまで続くと思ってんだ、お前?」

 呆れた眼差しでふたりを見やる松平に、近藤は胸を張って言う。

「トシは律儀な男だ。そんな簡単にちゃんを捨てるようなまねは絶対にしない!」
「いやそういうことじゃなくてよぅ……」

 松平は煙草を持った指で額の辺りを指先でかきながら、うまく言葉にならないもやもやした気持ちを胸の中でくすぶらせた。

 まさかあの土方が出会ってまだ数カ月しか経っていない女に心底惚れたとは思えない。つまり、土方はを好きな振りをしているわけだ。そんなことを初めてしまったら不自由極まりないではないか。少なくとも屯所の中では常にそういう態度で接しなければならないし、おそらく満足に女遊びもできないだろう。松平なら一週間も経たないうちに音を上げてしまう自信がある。土方十四郎という男は、それができる男なのだろうか。

「……それにしても、俺はちゃんが不憫でならねぇなぁ」

 女中の仕事なぞ引き受けたばかりに、こんな面倒な立場に立たされたを想い、松平はしみじみと呟いた。





「どうした? これ」

 土方は茶と一緒に供されたなんだか分からないものを見下ろして呟いた。

「松平様からいただいたんです。異国のお菓子だそうですよ」

 は答えると、茶の隣にマヨネーズをそっと置く。真選組屯所に住み込みをはじめて三カ月も経てば、は土方にだけ特別に配慮しなければならにいくつかのことを、考えるまでもなく自然な仕草でこなせるようになっていた。

「また届いたのか」
「えぇ。こちらにいらっしゃるたびに何かしらお持ちくださいますね」

 松平から宛に届く贈り物は、毎度多種多様で、珍しく値の張りそうなお菓子やくだものが多い。どれもや土方が見たこともないようなものばかりだ。

「お前も好かれたもんだな」

 土方は面白くなさそうな顔をして、皿の上でつんと澄ましている菓子を見下ろした。武州の田舎生まれの土方にはハイカラすぎる、洒落た菓子だ。

「あのとっつぁんにここまで気に入られるなんて、どんな手使ったんだよ?」
「そんな人聞きの悪いこと仰らないでください。私は何もしてません」
「そうなのか? 何考えてんだかな、あの親父」
「まぁ、ご親切には変わりありませんし、どうぞ召し上がってください」

 土方はそこではっとした。

「ちょっと待てよ。これお前がもらったんだろ? 何で俺のお茶菓子にしてんだよ?」

 は何でもない顔して答える。

「だって、たくさんいただいたんですもの。ひとりじゃ食べきれませんし」

 土方は苦虫を噛み潰したような顔をしてを睨むが、はきょとんと土方を見返して首を傾げる。

「どうかしました? あ、甘い物は苦手でしたか?」
「いや、そういうことが言いてぇんじゃねぇんだよ」

 土方は額を押さえてうなだれる。

 は土方に気を遣いすぎるところがあって、それが土方には背中がかゆくなるようにこそばゆかった。ただでさえひとりで屯所の家事を切り盛りして毎日休みもなく働きづめだというのに、理由があるとはいえ、一日のうちの決まった時間を必ずは土方と過ごさなければならない。真選組、そして引いてはを守るためだとは言え、こんな生活に嫌気がさしてもおかしくはないのだが、はいつも機嫌よく笑って土方の世話を焼いている。

 ただでさえ不自由な生活を強いられているのだから、たまに送られてくるプレゼントくらい、土方を気にせずに受け取って欲しい。そうでないとこちらの罪悪感ばかり募ってしまうではないか。

「まだたくさんありますから、近藤さんや沖田くんにもお出ししますよ。何も土方さんだけ特別扱いしているわけじゃありませんから、遠慮せずに召し上がってください」
「……あぁ、そう」

 土方は脱力してそれだけ呟いた。

 松平片栗虎が何を考えてこんなににかまってくるのかはさっぱり分からないが、このことを松平が知ったらどんな目に遭わされるのだろうと考えると、土方は背筋が冷たくなった。きっと、ろくなことにはならない。





 松平が真選組屯所にやってくるのは、いつも事前連絡なしの抜き打ちだ。黒塗りの車が屯所の門の前に横付けされると、屯所は突然の嵐に見舞われたように大騒ぎになる。それはもう、土砂降りの雨、いかづち、大風。そんなもののように松平の存在は真選組にとって大きく絶対的で、有無を言わせない。

 けれど、菓子折りをぶら下げての前に現れる松平は、どこまでも気さくで親切な紳士だ。

「ほれ、土産だよ、ちゃん。相変わらず元気にやってるかい?」

 それはまるで、嵐のあと空に姿をのぞかせる虹のようだ。綺麗な円形ではなく、絵の具でさっと引いたような、かすかであっという間に消えてしまう虹。雨上がり空にそれを見つけるとほんのりと幸せな気持ちになって、ほっと心が和む。

「えぇ、おかげさまで。松平様もお変わりなさそうですね」

 松平のことをそんな風に思っているのは、の他にはおそらく誰もいない。





title by OTOGIUNION

20170220