会いにきた






「これ、落としましたよ」

人ごみの中で声をかけられて振り向くと、爽やかな笑顔をした男が立っていた。差し出された手に使い古した櫛が握られていて、それはがずいぶん昔から使っている気に入りの櫛だった。

「まぁ、すみません。 ありがとう」

「こちらこそすいません。どうやら僕の傘が悪さをしたらしい」

よく見ると、何かに鋭利なものに引っかかったのか、巾着の側面が裂けていた。櫛はそこから落ちてしまったらしい。男は頑丈そうな番傘を携えていて、その金具の先に巾着と同じ色の糸が絡み付いていた。

「弁償させていただけませんか?」

まるでずっと前からその言葉を用意してきたかのように、男はそう言った。その笑顔はぴくりとも変化せず、能面のように男の顔に張り付いている。は薄ら寒いものを感じて、身構えた。悪徳商法や詐欺というものは、テレビニュースの中だけではなく、現実に確かに存在していて、その対処法はこの町で生きていくための処世術のひとつだ。は曖昧に笑って男から距離を取ろうとするけれど、金曜日の夜のかぶき町では、人が多すぎて逃げ場がなかった。

「そんな、悪いわ。どうせ安物だから。いいのよ」

「そう言わずに。食事でも一緒にどうです?」

「これから人と会う約束があるから……」

「じゃぁ、その待ち合わせの時間まで。行きましょう」

「え? ちょっと、待って……!」

男は強引にの手を引くと、器用に人波を縫って歩き出した。悪徳商法の手口としてはあまりに乱暴な行為に、は唖然として物も言えない。男は驚くほど力が強く、まるで鋼の手枷を嵌められたようだった。はぞっとして、肌を泡立てる。男に乱暴された経験がないわけではないけれど、かといってそれに慣れているわけでも、恐怖心がないわけでもない。それに、この男は女に乱暴する男とは、根本的に何かが違う。この笑顔は、女という弱者を組み敷いて支配しようとする男のものではない。もっと冷静で、純粋で、そして残酷な何かだ。その正体がには分からなかった。

「あの、弁償なんて本当にいいの! 手を離して!」

ありったけの勇気を振り絞って声を大きくすると、男は手の力を緩めないまま笑顔で言った。

「せっかく口実作って会いにきたのに、つれないこと言わないでよ。さん」

「……どうして私の名前知ってるの?」

「どうしてって? さんの名前を知らない攘夷志士はいないよ」

「あなた、攘夷志士なの?」

「いや。攘夷志士の馬鹿な知り合いがいるだけさ」

男はの手首を痛めつけるように強く握りしめる。その痛みに耐えながら、は厳しい顔で問いかけた。

「あなたの知り合いって、誰?」

男は笑顔を崩さない。





*****






が連れ込まれたのは、かぶき町の外れにあるラブホテルだった。休憩1時間半、2千円の安宿だ。

男はダブルベッドにどさりと腰を下ろすと、一瞬でリラックスしたように両手両足を投げ出した。

「いやぁ、やっとふたりっきりになれたね」

部屋の隅に立ち尽くしたは、裂けた巾着を抱きしめてじっと男を睨みつけた。

男は桃色の髪を三つ編みにしていて、異国風の着物を着ている。肌が抜けるように白く、体付きは華奢だ。の手を折らんばかりに握りしめた怪力が、この体のどこに眠っているのか、一見して分からない。

「お腹空いたなぁ、何か頼んでいい?」

そういうなり、一体その量が体のどこに収まるのか、象の食事でもそんな量は消費しないだろという量を目の前にして一息も休まずに手を動かしている。一体、この男は何がしたいのか、には皆目見当もつかなかった。

さんは? 何か食べる?」

「結構よ」

ベッドから一番遠い位置にあるソファに浅く腰掛けて、はなげやりに答えた。

「冷たいなぁ」

「こんなところに無理やり連れてこられたら、冷たくもなるわよ」

「誰もいないところで話がしたかっただけだよ」

男はデザートの大皿に盛られたパフェを長いスプーンですくい取りながら、まじまじとを眺めている。品定めをするようなその目付きが、は気に食わなかった。

「まずは、名前くらい名乗ったら?」

「え? 僕のこと知らない?」

「知らないわ。どこかで会ったことがあった?」

「会ったことはないけど。噂話くらい聞いてると思ったんだけどな」

「噂になるくらいの有名人なの?」

「有名人なのはさんの方でしょう?」

男は満腹になったらしく、腹をさすりながら、の隣に場所を移した。は横目で男を睨みつける。

「私がどの界隈で有名だっていうの?」

「知ってるくせに。もったいぶっちゃって」

には、心当たりがないわけではなかった。

は以前、攘夷戦争時代に鬼兵隊を率いた高杉晋助や、白夜叉と呼ばれた坂田銀時と昔馴染みだということで、攘夷志士に拉致されたことがある。なんでも、高杉と銀時は昔、女を取り合ったことがあるとかで、その女の名前はというらしいという噂話が、攘夷志士の噂になっているようなのだった。もちろんそんな事実はないし、時が経つにつれて噂に尾ひれがついているのだということは分かる。

この男が誰からその話を聞いたのか、ということが、には気がかりだった。けれどこの食えない男が本当の事を話してくれるとはとても思えない。

仕方がないので、はひとつひとつ自分から質問をすることにした。

「あなたの名前は?」

「神威」

「歳は?」

「18になったかな」

「家族はいるの?」

「いない」

「仕事は何をしてるの?」

「質問してばっかりだね」

「あなたが何も話さないからでしょう?」

「じゃぁ、今度は僕が質問するよ。彼氏はいるの?」

は心底嫌気がさして思いため息をついた。

「わぁ。機嫌悪そうだね」

神威は面白くもなさそうに、わざとらしく笑った。

神威は誰かに似ていると、は思う。髪の色や肌の色は、神楽にそっくりだ。神楽は宇宙からやってきた夜兎という天人だというから、もしかしたら同郷なのかもしれない。

けれど、神威から感じる得体の知れない何かは、神楽からは連想できない類のものだ。冷静で、純粋で、残酷な何か。それが一体なんなのか、には考えても考えても分からない。例えば、北極に住むしろくまが南国のジャングルを知らないように、田舎町に生まれ育った子どもが都会の人熱やアスファルトの熱を知らないように。神威の体に染み付いた匂いは、全く別の人生を歩んできたには嗅ぎなれなかった。

さんは、想像していたよりずっと普通だね」

「どんな想像してたのよ?」

「馬鹿な侍を何人もたぶらかしたくらいだから、相当色っぽいお姉さんなのかと思ってた」

「予想が外れて残念ね」

「そんなことはないよ。むしろ想像していたより面白い」

神威は頬杖をついて、上目遣いにを見つめる。

その表情を見て、は思い至った。神威という男は、沖田総悟に似ているのだ。年よりも少し幼く見える顔立ちが似ている。純粋な子どものような眼差しが似ている。育ちのせいか、甘えん坊なくせして独りよがりで、かまって欲しそうにこちらを見る寂しげな兎のような風情が、似ている。

が理解できないことは、沖田のある一面だ。それは、一般人から人殺しと罵られる沖田の一面だ。近藤曰く、沖田は真選組いちの剣の使い手で、その実力は近藤や土方さえも上回るのだという。

沖田がこれまでに何人の攘夷志士の命を奪ってきたのか、は知らない。返り血に濡れて屯所に戻ってくる沖田を迎えて、「おかえりなさい」と、声をかけることだけが自分に出来ることだと思っていた。

神威は、沖田と同じだ。人の命を奪って生きている。冷静に、純粋に、残酷に。

「それに、あいつも面白いね。誰の手にも負えない野獣みたい。それでいて冷徹で、頭の中にはいつもひとつのことしかないらしい」

は破れた巾着をぎゅっと握り締めた。

「……誰の話をしてるの?」

「あいつは君のことを話す時、なぜかとても懐かしそうな顔をするんだよ。それがいつも不思議でさ」

神威は立ち上がって窓辺に立つと、音を立てて窓を開けた。夜風が柔らかく部屋に吹き込む。神威の三つ編みが風に乗ってしっぽのように揺れる。神威は窓辺に腰掛けて、楽しそうにの動揺する顔を眺めている。

「昔のことをそういう風に思い出す気持ちなんて僕には分からない。さんは、そんな気持ちになることがある? 子どもの頃のことをどのくらい思い出す?」

「……どうしてそんなこと聞くの?」

「僕は思い出にはとんと興味がなくてさ。昔話をしたがる人間の気持ちに興味もない。けど、いたって普通のさんが伝説の女だと騒がれる理由には興味があったんだ」

「……何を言っているの?」

さんに会いにきたのは暇だったから。けど、予想以上に楽しませてもらったよ。いつかまた会う時がきたら、その時はまた遊んでね」

神威の体がゆらりと傾く。次の瞬間には、神威の姿は窓辺から消えていた。

「待って……!」

慌てて窓辺に駆け寄ったには、もう神威の姿は捉えられなかった。夜風が神威をさらったのか、神威が夜闇に溶けたのか、もう分からなかった。

ネオンが光る地上を見下ろして、は苦々しく呟いた。

「……料金、踏み倒された……」





*****






「おぉ、遅かったな」

熱燗を傾けながら、銀時が言った。待ち合わせの時間を過ぎても現れなかったを差し置いて、ひとりでさっさと飲み始めてしまっていたらしい。

「やぁ、さん。お待ちしてましたよ。万事屋の旦那ひとりじゃ心配でねぇ」

カウンターの向こうから店主が笑顔で言った。

「え? それどういう意味? ツケなら払ったろ?」

「えぇ。さんが立て替えてくださって」

「あれはのおごりだろーが」

「旦那はやっぱりさんと一緒じゃないとねぇ」

「人をヒモみたいに言うんじゃねぇよ。こっちだってまじめにコツコツ働いてんだからな」

は店主相手に愚痴を零す銀時の隣に座って、差し出されたおしぼりを手に取る。

「あれ、巾着どうした?」

銀時が、の膝の上に乗った巾着の裂け目を指差した。

「うん。ちょっと引っ掛けちゃって」

は曖昧に笑って答えた。

「ふぅん」

銀時は何か言いたそうにしていたけれど、ひとまずお猪口をに持たせて酌をする。

「まぁ、とりあえずお疲れさん」

「え?」

「えってなんだよ。仕事だったんだろ? それで遅れたんじゃねぇの?」

「あぁ、うん、まぁね」

「なんだよ? 何かあったのか?」

心配そうに顔を覗き込んでくる銀時に、話をすべきかどうか、は迷った。確かなことは何も分からないし、自身狐につままれたような気分で、あれが本当に現実に起こったことなのかどうか実感がなかった。けれど、ホテル代と神威が飲み食いした食事の料金がきっかりの財布からなくなっているので、これが夢でないことはもう分かっていた。

こんな曖昧な不安を口にして、銀時に心配をかけたくはない。だから無理に笑って、嘘をついた。

「それがね、ちょっと土方さんと喧嘩しちゃって」

「そうなの?」

「土方さんったらひどいのよ。あのね……」

の作り話を、銀時は相槌を打ちながら聞いてくれた。嘘か本当か、銀時は信じていなかったかもしれない。はそれでも、嘘をつき通した。




20150215




会いにきてみた話。