土方が毎朝、無意識に心待ちにしているのは、朝稽古の汗を流して身支度を整えた後、朝の食堂で忙しなく働くの姿を瞳に収めることだ。だが、その日、の代わりに味噌汁をよそうお玉を握っていたのは、つぶらな瞳をした、手の焼ける小姓だった。

 がっかりと気落ちした心を隠そうともせずにかおをしかめた土方に、鉄之助は目覚まし時計のようなけたたましい声で挨拶をした。

「おっはようございます!! 副長!! 今日も朝早くから、ご苦労様です!!」
「おぉ、お前もご苦労さん」

 言いながら、視線だけで厨房をぐるりと見回すが、の姿はどこにも見当たらない。不審げに眉を寄せると、鉄之助は見かねて言った。

さんなら、午前中だけ休ませて欲しいって、連絡がありましたよ」
「なんだ、風邪でも引いたのか?」
「え? 副長には連絡いってないんですか?」

 その言い方が、土方の癪に障った。同じ真選組で働く恋人の出勤状況も把握していないのかと、暗に責められているようだ。鉄之助の純粋さが、小さな棘のように土方の気分を刺激する。

 しける直前の海のように波立つ気持ちをなだめつつ、返す言葉を探す土方を尻目に、鉄之助は勝手にぺらぺらとしゃべり出した。

「朝、目覚ましが鳴るより早く、僕の携帯に連絡があって今日の配膳係を頼まれたんですよ。急用が入ったらしくて、出先からかけてきたみたいですよ」
「そんなに朝早くにか? どこからだ?」
「さぁ? 場所は言ってませんでした」

 そんな時間に、が屯所の外にいることなど滅多にない。そういえば、昨日はは一日休みだったはずだが、昨夜は屯所に戻らなかったのだろうか。あの生真面目ながどんな理由にせよ、仕事を人任せにするような無責任な真似をするとは思えない。もしかすると、何かトラブルに巻き込まれたのではないだろうか。

 土方はつい深刻に考えこんでしまったが、鉄之助はのん気なもので、食堂中によく響く声で笑いながら言った。

「本当、珍しいですよねぇ! 副長が一緒ならまだしも、さんが朝帰りするだなんて!」

 朝食にありついている隊士達の雑談が、水を打ったようにぴたりと止んだ。



 が屯所に戻ってきたのは、土方が午前の会議を終えて、市中見回りへ出発するちょうどその時だった。パトカーに乗り込もうとしたまさにその時、警備の隊士に微笑みを向けて正門をくぐるの姿を、土方は目の端に捕らえた。その足取りをつい視線で追ってしまう。

 は、顔色をうかがうような鋭い視線に気づくと、はっと目を見開き、それから気づかわしげな微笑みを浮かべて会釈した。髪を撫でつける手が、何かをとりつくろうような仕草に感じたのは、鉄之助の無邪気で無神経な声が、まだ土方の脳内でサイレンのように鳴り響いていたからかも知れなかった。



 見回りから戻り、もろもろの雑事を片付け、副長室にこもって事務仕事を片付けていると、あっという間に一日が過ぎ、夜は更けた。

 山積みの書類は残すところ三分の一ほどまで減ったころ、助けを呼ぶような悲鳴が腹の中から聞こえ、土方は夕食をすっぽかしてしまったことにようやく気付く。

 うん、と伸びをして、肩の筋肉をほぐし、咥え煙草から白い煙をゆらゆらと揺らしながら、夜の食堂へ足を向ける。その足取りは重かった。鉄之助の妄言を真に受けているつもりはないが、の顔を見るには重い腰を上げる気合が必要だった。

 自分のことだから、開口一番、無意識にも責めるような口調でものを言ってしまいそうで、それが忍びなかったのだった。夕食を忘れて事務仕事に没頭していたのも、それを避けたいがための現実逃避だったのかもしれない。

 おそるおそる食堂の引き戸を開けると、厨房の奥の方に灯りが見えた。がさごそと物音もする。

 首を伸ばし、奥を覗き込んだ土方の目に映ったのは、目に涙を浮かべながら大あくびをするの横顔だった。

 土方の肩が引き戸にぶつかり、大きな音が立った瞬間、ふたりの目が合った。の頬がみるみる赤く染まり、手に抱えていた書類束で悲鳴を押し殺す。

「ひ、土方さん? 何なさってるんですか?」
「いや、夜食、なんかねぇかなと思ったんだが……。邪魔だったか?」
「いいえ、いいえ。そんなこと全然ないです。あの、お夜食のおむすび、まだたくさんありますから……!」
「じゃぁ、勝手にもらうぞ」

 土方は珍しいものを見るように目を丸くして、落ち着きなくあたふたしているを横目で見やった。のあくびを見るなんて、もしかするとはじめてかもしれない。控えめに口を開けて、それすら小さな白い手で隠す仕草は覚えがあるが、強い眠気に抗えず、何か大きなものを飲み込もうとするようにめいっぱい口を開ける姿は記憶になかった。

 いい加減長い付き合いになるが、まだまだ知らない顔があったんだな、としみじみ考えながら、土方はアルミホイルにくるまれたおむすびの中から、できるだけ大きなものをふたつ選んだ。カウンターに近いテーブルの椅子を引いて腰を下ろすと、こそこそとがこちら側に出てきた。盆で、急須と湯呑を運んでくる。

「どうぞ」
「あぁ、悪いな」

 茶を淹れている間に冷静になったのか、いつもの調子を取り戻したようだ。頬にはまだ赤味が残っているが、その恥じらうような表情が土方の胸の奥を温かくする。

「疲れてるんなら、さっさと休めよな」

 自分で思うよりもずっと柔らかい声が出たことに、土方だけでなくも意外そうに目を見張った。丸く見開かれた目は柔らかく細まり、照れくさそうに首をかしげると、ほつれた髪が肩口を撫でた。

「そうしたいのは山々なんですけれど、今日の分の仕事が終わってないんです」

 棚の中身を改めていたところを見ると、贖罪の棚卸でもしていたのだろう。抱えていた書類は注文書だろうか。

「明日に回せないのか?」
「明日は明日で、なんやかやありますからね」
「それをわかってるんなら、朝帰りなんかすんなよな」
「面目ないです」

 は照れくさそうに苦笑した。土方が顎をしゃくってうながすと、素直に隣の椅子に腰を下ろす。その殊勝な態度に、後ろめたいものはない。土方はおむすびにマヨネーズをしぼりながら、信じて待った。

「昨日は、銀さんと会ってたんです」

 そんなことだろうと思った、とは、口には出さなかった。土方がうながすまでもなく、はたんたんと続けた。

 たまの休日に、昔馴染みである銀時を訪ね、互いの都合があったので、飲みに行くことになった。だが、銀時が悪酔いしてしまい、その介抱のために夜通しつき合っていたのだと言う。

 銀時は近頃、万事屋の寝室を神楽に奪われてしまい、寝床を失って、夜な夜な町を徘徊する日々を送っているらしい。ゴミ捨て場で夜を明かすことも珍しくないらしく、すっかり酔いが回ってしまった銀時の口からは、とめどなく愚痴がこぼれ続けた。

 銀時には人一倍甘い性格のですら、飽き飽きしてくるほどの時間が過ぎた頃、新八がひょっこり現れた。へべれけになった銀時をかついで万事屋に連れ帰ってくれることになったのだが、夜もすっかり更けたかぶき町は、女がひとり歩きできるほど、安全ではない。銀時を万事屋に帰した後に、を屯所まで送ると言い張る新八の申し出を、は無下に断ることはできなかった。

 新八と銀時と共に万事屋にたどり着いた頃には、朝一番の鳥の鳴き声が白む空に響きはじめていた。

「神楽ちゃんにすすめられて、万事屋で少し仮眠を取らせてもらってから帰って来たんです。銀さんは、わたしは出てくるときもお酒の匂いぷんぷんさせながらソファで寝てました」
「鉄には、万事屋から電話したのか?」
「はい、そうです」
「俺に連絡すりゃよかったのに」
「それじゃ、二度手間になりますもの。それにその時間は、土方さんは朝稽古に出ているだろうと思って」

 なるほど、なりに気を遣った行動というわけだ。そのおかげで、朝の食堂で鉄之助の無邪気な言葉に恥をかかされる結果になったわけだが。

「事情はわかったが、次の日に影響するほど、たちの悪い酔っ払いにつき合ってやる義理はなかったんじゃねぇのか?」

 万事屋・坂田銀時への嫌味を忍ばせて、土方は言う。
 はその声色をおもしろがって、くすくすと笑った。

「土方さんの言うとおりかもしれませんけど、どうしても放っておけなくて……。だめですよね、本当。自分でもわかってるんですけど」
「そのお人好しの性格のせいで、寝不足の癖に残業するはめになってるんだろうが」
「はい、ごもっともです」

 は小さな両手で口元を抑えて笑っていたが、控えめな笑い声はふくみのある柔らかいため息になって消えた。あくびをかみ殺す気力も残っていないらしい。

「少し、寝てきたらどうなんだ?」
「いえ、大丈夫です。それに、一度横になったら、もう起き上がれないと思うので」
「起こしてやるよ」
「でも……」
「そんなぽやぽやしながら仕事してっと、しょうもないミスが出るぞ。そうなったら、痛い目見るのは結局お前だぜ?」

 は重そうなまぶたを何度かまばたいた後、ふう、と息を吐いて肩を落とした。

「……それもそうですね。それじゃ、少しだけ、休んでから再開します」
「それがいい」

 おむすびを平らげた土方は、温かい茶で口直しをして、煙草に火を着けた。胸に深く息を吸いこんで、煙を吐いたその瞬間。肩に心地よい重みが優しくもたれかかってきた。

 驚いて顎を引けば、が土方の肩にもたれかけ目を閉じている。まつ毛に縁取られたまぶたはしっかり閉じられ、薄く開いた口元からは、すうすうと、規則正しい吐息が漏れていた。

 厨房の奥に女中部屋があり、そこはをはじめ、厨房で働く女達の休憩室となっている。そこへ行って横になって来い、と、土方としては言ったつもりだったのだが、一度横になったら起き上がれる気がしない、と言ったの気持ちはよほど切実だったらしい。それとも、立ち上がってそこまで行く気力もなかったのだろうか。

 期待を込めて考えれば、銀時に一晩つき合って朝帰りをしてしまったお詫びに、こうして甘えてくれているのかもしれない。

 土方は、の安らかな寝顔を見下ろしながら、ゆっくり煙草をふかした。この煙草を吸い終わって、湯呑の茶がすっかり冷めてしまうまでは、起こさないでいてやろうと思う。

 夜食をあさりに来る隊士が今夜はもういないといいのだが。酔っ払いの世話をするためにほんの少し無理をしたから、わずかな安眠を奪うほど、神様仏様も意地悪でないことを祈ろう。

 土方はそっとの肩に腕を回した。顔に落ちかかった髪を指ですくい取っても、は身じろぎもしなかった。

「お疲れさん」

 土方の甘いささやきは、の夢の中まで侵入したらしい。口元が蕾がほころぶように微笑んだ。




20220505 Happy Birthday!!