退屈そうなため息に吹かれた白い煙が、窓の向こうに広がる景色をかすませた。
龍のようにしなやかに枝を伸ばす松の木と、白い玉砂利が水のような波紋を描く枯山水の庭園である。小山のような岩と、完璧な球形に整えられた生垣。その向こうに、火を灯したような赤い橋の欄干がのぞき見えている。おそらく、その下を小川が流れているのだろう、蝶のため息のようにかすかな水の気配がただよってくる。松の葉のざわめきと、鳥が鳴き交わす声が、思い出したように聞こえてくるだけで、まるで、
と土方のふたりだけを残して全人類が滅んでしまったような静けさが満ちていた。
「張り合いがねぇんだよなぁ」
の膝に頭を乗せて煙草を吹かしている土方は、虚ろな目をして天井を仰いでいる。寝癖がつかないように土方の黒髪をなでつけながら、
は霞のようにただよう煙草の煙を、そっとため息で吹き飛ばした。
「最近、そればっかりですね」
星芒教の脅威は消え、虚は去り、爆破で崩れたターミナルも再建され、江戸の長い夜は明けた。失ったものは大きく、何もかもがすっかり元通りになったわけではない。瓦礫の下から力強い希望が芽吹き、新しい君主を迎えたこの国は、一歩一歩、小さいながらも確かな歩みを進めている。
そんな中、近頃の真選組は、以前とは少し性格が変わっていた。
これまで血眼になって追いかけてきた鬼兵隊や桂小太郎の一派は、ターミナルを舞台にした決戦で完全に瓦解。真選組の長年の宿敵は、江戸から姿を消した。
代わりに現れたのは、時代の変わり目という混乱に乗じた小悪党である。鬼の副長・土方十四郎にとってはものの数にも入らない小物ばかりらしく、喧嘩の相手に不満が尽きないというのが、目下の悩みらしい。
「世の中が平和になったってことなんですから、いいじゃありませんか」
「けどな、俺達は特別武装警察・真選組なんだぜ。それがいまや、こそ泥やら痴漢やら追っかけてるんだ。考えるだけで泣けてくるぜ」
「そんなこと言ったら、近藤さんに叱られますよ」
「んなことは、わかってるよ」
土方のため息は濃く白い煙になって、せっかくの美しい庭の景色を見えなくする。煙は土方の嘆きを吸ったように重々しくたゆたい、なかなか薄れてくれない。いっそ、思い切り息を吐いて、吹き飛ばしてしまおうかと思うけれど、そこまでするのはなんとなく嫌味っぽいような気がした。
「ねぇ、土方さん。こんなに素敵な宿に泊まってるんですから、お仕事の話は、なしにしません? せっかくなんだから、のんびりしましょうよ」
「のんびりねぇ。別にそんな、疲れてねぇんだよなぁ」
ため息混じりの言葉が、
の胸をもやもやさせる。土方は部屋に入るなり、ひと息つくよりも先に
の帯をほどいた。体力が有り余っていると言わんばかりの抱き方だった。
逃げの小太郎と呼ばれる桂をひたすら追いかけ回したり、高杉の企みに翻弄されたり、ターミナルを占拠したテロリストと戦ったりするのに比べれば、こそ泥や痴漢を追いかけるのは朝飯前に違いない。そんな仕事に飽き飽きする気持ちも、わからないでもない。
とはいえ、かぶき町商店街のくじ引きで、ホテルニューオオエドの宿泊券を当てたのは土方なのだ。自分から誘っておきながら愚痴ばかりこぼしてどういうつもりかしら、と思わずにはいられなかった。
「これまで本当に大変だったんですから、今はゆっくり休みなさいって、天の神様がおっしゃってるんですよ。だから張り合いがないだなんて言わないで、英気を養ういい機会だと思ったらどうですか? ほら、お庭が綺麗ですよ、見てると心が和みます」
土方の頬をつつく
の手を、土方は邪険に振り払った。
「神様なんかが本当にいるんなら、余計なお世話だって文句言ってやりてぇよ。俺は侍なんだ、剣を交える相手を奪ってくれるなってな」
「……土方さんって、本当に喧嘩が好きですよねぇ」
近藤はよくこう言う。「トシは、仕事しているのだか喧嘩しているのだかわからない男だ」と。剣の腕を振るう機会が減れば、気持ちが腐るのも無理はないのかもしれない。
は煙に邪魔されずに庭を眺めたかった。土方とふたりで橋の欄干に寄りかかって、たわいないおしゃべりをしたかった。もしかしたら、川には錦鯉が優雅に泳いでいるかもしれないし、鳥のさえずりを身近で楽しむこともできるかもしれない。
そんな穏やかな時間を、土方とふたりで過ごしたい。そう思っていたのに、土方は不貞腐れたように寝転がって不満を言うばかりで、
が誘っても美しい庭に目もくれない。
「そんなに喧嘩が好きなら、銀さんに会いに行ったらどうですか?」
が唇を尖らせてそう言うと、土方は膝の上で眉をしかめた。
「なんでそこであいつの名前が出てくんだよ?」
「だって土方さん、銀さんと会うと、なんだかんだでいつも喧嘩してるじゃないですか。ちんけなこそ泥より、やりがいあるんじゃないですか?」
「俺ぁ別にただ喧嘩がしたいわけじゃねぇんだよ」
「そうは聞こえませんでしたけど」
「あいつの腑抜けた顔なんざ、わざわざ見に行ったって気分悪くなるだけだっつーの。何を怒ってんだよ?」
土方はからかうように
の頬をつまもうとする。
はその手を避けてそっぽを向いた。
「怒ってませんよ。ただ、土方さんはわたしといるより、喧嘩してる方が楽しいみたい」
「おい、
……」
土方の声は、ごつん、という鈍い音で途切れた。
が急に立ち上がったせいで、土方の頭が膝から滑り落ちたのだ。
はこれ見よがしに、テーブルいっぱいに宿のパンフレットを広げてみせる。アロママッサージやネイルサロン、エステ。花びらをぶちまけたようなきらびやかな広告は、枯山水を楽しんだ目には少し毒々しい。
「もういいです。わたしはひとりで楽しみますから」
土方は後頭部をさすりながら、しぶしぶと
のそばまで這ってきた。
「怒るなよ」
叱られたようにしょげた顔をする土方を、
はつんと澄ましてにらむ。
「別に、怒ってませんよ」
「何が気に食わないんだよ」
「そんなこと言ってません」
「なんなんだよ、わけわかんねぇ」
土方は両足の間に
の体をはさむと、腰を掴んで引き寄せた。そろえた足が崩れて、土方の胸板に倒れかかった
は、首筋に土方の唇が吸い付くのを感じて、思わず身をすくめた。こうすれば機嫌が直ると思われているのだろうか、そうと思うとますます、もやもやした。
「やめてください」
「なんでだよ。ゆっくりしようっつったのはお前だろ」
「こういう意味じゃありません。さっきしたばっかりじゃないですか」
「1回きりだと思ってたのかよ」
「そうじゃなくて。こうやってうやむやにされるのが嫌なんです」
「やっぱり怒ってんじゃねぇか」
ごつん、と、額と額をぶつけて、土方は
の目をのぞき込む。
「なぁ、喧嘩なんかやめようぜ。こんなのは不毛だ」
射るような鋭いまなざしは、
の意固地に固まった気持ちのど真ん中を見事に射抜いた。
「喧嘩、好きなんじゃないんですか?」
「仕事でならな。お前とじゃない」
胸に小さな穴が開いて、そこから空気がもれるようにもやもやが晴れていくようだった。苦い煙草の匂いのする土方の息で胸を満たしながら、
は静かに言った。
「わたしだって、喧嘩なんかしたくないです」
土方の腕に力がこもって、強く抱き寄せられる。たくましい背中に体をあずけて甘えると、土方は安心したように少しだけ口の端を持ち上げた。
「土方さんは、ゆっくり休むっていうことを、ちゃんと学んだ方がいいと思います」
「そうか?」
「そうですよ。これまで十分すぎるくらい、危険な目に遭ってきたんですから」
「まぁ、ここのところずっと戦ってばっかで、それが当たり前みたいになってたからな」
「自分で思ってるよりもずっと疲れてると思いますよ。ここに泊まってる間だけでもいいですから。仕事のことは忘れて欲しいんです」
「わかった。で、どうすりゃいいんだ?」
はにやりと笑うと、座椅子を倒すように思いきり体重をかけ、土方ともつれ合うようにして寝転がった。流れるように帯をほどこうとする土方の手をぺちんと叩き、目を丸くする土方の鼻をつまむ。
「しばらくこうやって、ごろごろしましょう。そうしたら後で、一緒にお庭を散歩しましょう」
「それだけか?」
「それだけです」
困った顔で天井を仰ぐ土方の横顔は、まるで迷子になった子どものようだ。
は土方の腕を枕にして、その厚い胸板に手を乗せた。耳と手のひらに、土方の心臓の鼓動が伝わってくる。じっと耳をかたむけていると、ひたひたと押し寄せてくる安心感で胸がいっぱいになった。
土方はわかっていない。江戸が暗い闇に包まれていた頃、日々、戦いに明け暮れ、傷だらけになって帰ってくる土方を、
がどんな気持ちで見守ってきたか。命を落とすかもしれない戦いに出かけていく土方の背中を、どんな思いで見送ってきたのか。
土方は何も知らないのだ。あの、心が真っ二つに引き裂かれるような痛みを。何が起きても後悔しないようにと、ちっぽけな心を奮い立たせて、精一杯の笑顔で見送ったことを。眠れないひとりきりの夜に襲ってくる、底なし沼のように真っ黒な恐怖を。
土方が今、どんなに物足りない思いをしていたとしても、平和は江戸の町は
が喉から手が出るほど強く欲したものだ。
土方が文句を言わなくても、どうせすぐに、真選組の敵は江戸の町に戻ってくる。いつの世にも悪だくみをする人はいる。犯罪はなくならない。新たな敵に土方が夢中になる前に、ふたりきりの時間を満喫しておきたいと思うのは、わがままというほどのことでもないはずだ。
「なんだか、時間が止まってるみたいだな」
土方がささやくように言う。
は微笑みを浮かべたまま目を閉じた。ゆったりとしたリズムを刻む土方の鼓動は、まるで子守唄のようだった。
「そうですね」
「お前は、こんなことがしたかったのか」
「こんなことなんて、言わないでください」
「なんだ、眠いのか?」
「いいえ。しばらくこうやってじっとしていたいんです」
土方が身じろぎをしたかと思うと、胸板に押し付けられるように抱きしめられた。苦い煙草と汗の匂い混じった、土方の匂いに全身を包まれるようで、眠くないとこたえたものの、まぶたがとろりと重くなる。
「まぁ、たまにはこういうのも、悪くはないか」
土方の指が頬を撫でるのを感じながら、
は思う。わたしにとっては、これが最高の幸せなんですよ、と。
202101016