真選組隊士には酒好きが多く、屯所では頻繁に宴会が開かれる。酒が飲めれば、目的は何でもいい。山崎の特別功労賞受賞を称えて、とか、攘夷浪士の検挙率の向上を祝って、とか、松平公のペットの誕生日会とか、もはや何でもありだ。

 今夜の宴は、ある隊士の結婚祝いだった。

 宴会の中心にいるのは、二十代半ばの中堅隊士で、名前を片岡という。近藤局長の祝いの言葉に恐縮そうに耳を傾ける表情は、完全に幸せボケしていた。あの様子では、前線に出たらあっという間に隙を付かれてお陀仏だろう。

「土方さん、祝いの席でそんなしけたツラするのは止めてくださいよ」

 酒瓶を片手に土方の隣に座った沖田は、すでにほろ酔いだ。

「全員そろって酔い潰れるわけにはいかねぇだろうが」
「だからって、主役を睨みつける必要はないじゃないですか。やけに不機嫌ですね。何かあったんですか?」

 土方は前髪の下に隠れた眉間の皺を指の腹でごしごし擦る。確かに、沖田の言う通りだ。めでたい席に水を差してはいけない。ましてや個人的な感傷で場の空気を乱すなど。

「少し疲れてるだけだ」

 土方はそう嘯いて、沖田の酌を受ける。

 片岡の結婚相手は、飲食店で働く年上の女だそうだ。合コンで知り合って付き合いが始まり、それから半年で女が身籠った。いわゆる、できちゃった結婚になる。

「それにしても、結婚っていうのは不思議なもんですね。片岡があんなふやけた顔をするようになっちまうなんて、意外でしたよ」

 沖田が酒を煽りながら言った。

 土方は猪口の中で酒を回しながら、片岡が結婚の報告をしに来た時のことを思い返していた。

「結婚というよりも、ガキができたことの方が嬉しいって言ってたぞ。結婚の決め手もそれだとよ」
「つまり、年上のかみさんが適齢期逃したくないあまりに、既成事実作って押し切ったってことですか」
「具体的な邪推をするな。相手が何かしたかどうかは知らねぇし、片岡がそれをどう思ってんのかも分からねぇ。けど、こういう結果に落ち着いたっていうことは腹をくくったってことなんだろう」
「まぁ、そうでなきゃあんな風には笑えませんよね」

 次々に祝いの酒をもらっている片岡は、顔どころか首まで真っ赤だ。祝うために酒を飲むのか、飲むために祝うのか、もはや浮かれ騒ぎとしか言いようがない有様だ。そんな、粗野で下品な馬鹿騒ぎを、片岡も心から楽しんでいるようだった。

 土方は酒を飲み干すと、静かに腰を上げた。

「俺は先に休ませてもらう。後は頼むな」
「もうですか? せめて一杯くらい片岡に酌してやったらどうです?」
「もう十分だろう。明日も仕事なんだから、ほどほどのところで切り上げさせろよ」
「まったく、つれねぇ人だな、土方さんは」

 後ろ手に手を振って、土方は部屋を後にした。

 喧騒から離れると、ほっと溜息が零れた。土方は大勢で飲むのは苦手だ。祝いの席だから顔は出したが、初めから長居するつもりはなかった。明日は二日酔いで使い物にならない隊士も多そうだから、きっと忙しくなるだろう。そのためにも、自分がしっかりしていなければならない。

 煙草を吹かして廊下を歩きながら、土方は片岡の言葉を思い出す。近藤と土方の前で改まり、結婚の報告をした片岡は、照れ臭さそうにしながらもどこか誇らしげな笑顔を浮かべてこう言ったのだ。

「ただのチンピラだった自分が父親になるだなんて……。正直、まだ信じられません。けれど、子供に恥じないような生き方をしたいと思います」

 江戸の平和を守るという任務を背負いながら、家族を背負うという決意表明だった。片岡に親はおらず、近藤は父親にも等しい存在だった。それを前にして心からの決意を述べることで、自分なりのけじめとしたのだろう。

 その姿は眩しく、土方の胸のしこりをじりじりと焦がした。

 仲間を祝う席で、自分の連れ合いの姿を思い浮かべない男はいない。土方も、のことを思い出していた。

 との付き合いは、それなりに長い。喧嘩をすることもあるが、概ね仲良くやっている。互いに仕事が忙しいから、なかなかふたりでゆっくり過ごすこともできないが、同じ屋根の下で生活しているからこまめに顔を合わせることは難しくない。大したことはできなくても、日々のちょっとした触れ合いを大事にしてきたつもりだ。

 胸のしこりは、数日前に生まれたものだった。久しぶりにと時間が合い、外で食事をして、いい宿でひと晩を過ごした。美味い酒と肴に舌鼓を打ちながら近況を話し合ったり、裸で抱き合いながら甘い言葉を交わしたり、ふたりでしかできないことをして楽しんだ、いい夜だった。ただひとつ、土方には引っかかっていることがある。

「今夜は、つけないでしませんか?」

 何を、と言えば、薄い合成ゴムの隔たりのことだ。提案したのは、の方だった。

 これまでにも、それを使わずにしたことがないわけではない。けれど、がわざわざ意思表示をしたのは初めてのことだった。

 土方は深く考えずに応じた。紙より薄い隔たり一枚なくなっただけで、体の感覚は驚くほど変わる。の中に自分の体が溶けてなくなっていくような心地良さは、近頃感じた中では一番強く深い快感だった。

 けれど、そこには大きな責任が伴う。片岡の結婚で、そのことに気づかされてしまった。

 どうしてあの夜に限って、はあんなことを言ったのか。理由は聞けなかった。せっかくのいいムードを壊したくなかったし、あけすけに言えば、生でしたかった。ただ、自分勝手な欲望に従ったのだ。

 もし、それが原因でが身籠ったとしたら。そう想像した瞬間、土方は腹の底がずっしりと重くなった。片岡と同じように笑えない自分が、そこにはいた。

 若い頃にも同じような気持ちになったことがある。日々、攘夷浪士と戦い、いつ死ぬとも分からない身で、女を幸せにできるはずがない。だから、惚れた女には自分の手の届かない場所で、普通に幸せになって欲しい。あの頃は、それが心からの望みだった。その信念から手放した恋に後悔はないし、その選択を間違ったとも思わない。

 は、土方のそんな信念を飛び越えて腕の中に飛び込んできてくれた。そうまでして自分を好きでいてくれるを、土方も同じように、いや、それ以上の気持ちで求めるようになった。

 が大切だ。守りたい、そう思っているのに、が身籠る危険を冒してしまった。子供を持つことになんの覚悟も持てない自分が、していいことではなかったのではないか。

 土方が重いため息を吐いたとき、大きな物音がした。ガシャンッ、と、金物が高いところから落ちたような音だ。音がした方向には食堂がある。嫌な予感がして、土方はとっさに足を向けた。今夜の宴会のために、も遅くまで働いているはずだ。

 扉を勢いよく開いて目に飛び込んできた光景に、土方は目の色を変えた。

 隊士がシンクの前に立ち、不自然に身もだえしている。何かを抱きかかえるような前のめりの姿勢で、大柄な体で誰かを隠しているようだ。姿は見えない。けれど、漏れ聞こえてくる声で正体は明らかだった。

「ちょっと、やめてってば……!」
「いいじゃないですかぁ、ちょっとくらい~」

 土方は猛然とふたりに駆け寄ると、素早く刀を抜き、その柄で隊士のこめかみを打った。隊士は「うっ!」と重い悲鳴を上げて昏倒し、そのまま動かなくなる。

「ひ、土方さん?」

 泣きそうな顔をしたは、襟が乱れ、帯がほどけかけていた。シンクの縁に縋りつくようにしてなんとか立っているという有様だ。

 脳が沸騰するような怒りが沸いて、土方は思わず隊士の股間を踏み潰してしまうところだった。が、幸いにもその直前、数人の隊士が食堂に駆け込んできた。

「あぁ! やっぱりここにいた!」
「副長、何があったんですか?」

 聞かなくても見れば分かるだろう、土方はそう言いたいのをぐっとこらえて腕を振る。それですべてを察した隊士は、ふたり掛かりで倒れた隊士を支え、引きずるようにして連れ出していく。

 残った隊士が言う。

「便所に行くと言ったっきり戻らなかったので、もしかしたらと……。さん、大丈夫ですか?」
「えぇ。まぁね」

 は苦笑いしながら、胸元を掻き合わせた。

「あいつ、ずっとさんに憧れてたんです。もちろん、副長とのことは分かっていたはずなんですけど、酔った勢いでこんなことをするとは」
「もういい、黙れ」

 土方が低い声でぴしゃりと言うと、隊士は気をつけの姿勢になって、口元を引き結ぶ。土方は床をじっと見つめたまま、不自然なほど平坦な声で命じた。

「処分は追って知らせる。左のこめかみを殴った。脳震盪の恐れもあるから、介抱してやれ」
「はい!」

 隊士は敬礼をして、すぐに出ていった。

 は、身を竦ませたまま動かない。いや、動けないのかもしれない。怯えたような目、シンクの縁を握りしめた手は震えている。

 土方はひとつ深呼吸をしてから、そっと手を伸ばして言った。

「大丈夫か?」
「……はい、平気です」

 はそっとシンクから手を離すと、土方の手を取った。そのまま土方の胸にもたれかかってくる。土方はその背中を撫でて、なんとか落ち着かせようとした。

「来てくださって、ありがとうございます」
「いや、もっと早く来てやれば良かったな」
「そんなことは……」

 の胸が、全力疾走した後のように激しく脈打っているのが分かる。よっぽど怖かったのだろう。

 は普段から隊士達と親しく付き合っているし、時には口喧嘩をして言い負かしてしまうこともある。けれど、腕力に訴えられれば絶対に敵わない。信頼を寄せていた人間からこんな仕打ちを受ければ、なおさら傷ついたに違いない。

 土方は両腕に力を込めて深くを抱きしめる。

 腕の中から、が言った。

「土方さん」
「なんだ?」
「あの、彼のこと、あんまり怒らないであげてください。すごく酔ってて、自分が何をしてるかもきっと、分かってなかったと思いますから……」

 次の瞬間、土方はの肩を掴んで怒鳴っていた。

「何をふざけたこと抜かしてやがる!?」

 の丸く見開かれた目に、みるみる涙が浮かんだ。子供が夜の闇に怯えるような泣き顔に、土方の胸は狂おしいほどに痛む。

「なっ、なんで怒鳴るんですか?」
「お前が馬鹿なこと言うからだろうが!」
「ばかって……、何でこんな時に、そんな酷いこと言うんです?」
「こんな時だからこそだ! この大馬鹿野郎が!」

 土方はの手を掴み、有無を言わさず食堂から引っ張り出した。は「まだ仕事が、」とかなんとか、この期に及んでまだそんなことを言っていたけれど無視した。

 同じ屋根の下で暮らし、信頼関係を築いてきたはずの男に襲われた。着物を剥ぎ取られそうになって、危うく強姦されるところだったのだ。どうしてそんな相手をかばうようなことを言うのか、土方にはまるで理解できない。

 どうして自分を傷つけた人間に優しくできる? 酔っている間にしたことなら、何をしても許されると思っているのか。そもそも、冷静な判断力さえ失うほど酒に溺れるなど、飲み方を知らないわけでもないのに無責任すぎる。ひとりで酔いつぶれているならいいものの、女を手籠めにするなど言語道断だ。に憧れていたと言っていたが、それなら何をしても許されるのか。

 惚れた女を泣かせておいて、何が侍だ。

 土方はの住まいである離れの前に立った。振り向けば、は声を出さずにはらはらと泣いていた。涙に濡れた頬が、夜の闇の中で白く光っている。

「今日はもう休め」

 土方はできるだけ穏やかな口調で言うように努めたが、怒気を隠しきれない。言葉の端々に火花が散っているような声になる。

 はそんな土方の隊服の裾を掴んで、小さく首を横に振った。

「いやです。こんな気持ちのまま眠れません。なんで怒ってるんですか? せめてそれくらいは、教えてください」

 土方は呆れて声も出なかった。本気で言っているのだろうか。は気も回るし、細かいところによく気がつく。人の感情の機微にも敏感だ。なのに、自分のこととなるとこんなにも鈍いのか。

 土方は気を取り直すため、煙草に火を着けて一服した。煙と一緒に深呼吸をして、怒りに焼き尽くされそうな気持ちを少しでも落ち着かせたかった。

 その間ずっと、の手は土方の裾を握りしめていた。言い逃れすることは許さないとでも言うように。

「俺はだな、てめぇを無理矢理手籠めにしようとするような奴をかばう必要はねぇと言ったんだ」

 は濡れた瞳でぱちくりと瞬きをした。まるで雨に降られた子犬のようで、土方は思わずフィルターをぎゅっと噛み締めた。

「かばったつもりは……。ただ、私は思ったことを言っただけで……」
「無自覚ならなおさらたちが悪いぞ」
「でも、あんなことになったのはお酒のせいですよ」
「なんでもかんでも酒のせいにしてりゃ、警察はいらねぇ」
「でも……」

 土方は今日一番大きなため息を吐くと、ぐしゃぐしゃと頭をかいた。埒が明かない。

 フィルターが折れてしまった煙草を踏み潰し、火を消す。そしての顎の下に手を入れると、ぐいと上を向かせて瞳を覗き込む。

「言い方を変える」

 涙で濡れたの瞳。その深みにはまれば二度と抜け出せない底なし沼のような瞳だ。土方はもうとっくの昔に足どころか、全身を取り込まれている。

 土方は熱っぽく、訴えるように言った。

「お前は俺のもんだ。お前が酷い仕打ちを受けりゃ、腹が立って当然だろうが。そのお前が、俺以外の男の肩を持つなんざ、とてもじゃないが許せねぇんだよ」

 の唇が震えている。薄く開いた隙間から、白い歯と赤い舌が見え隠れする。わずかに荒い吐息が土方の鼻先を漂っている。土方の口の中、熱い唾液がほとばしった。肉汁が滴るぶ厚い肉を目の前に突き付けられた、飢えた犬にでもなったような気分だった。今すぐかぶりつきたい衝動が突き上げてくる。

 手のひら中で、の顎がほんの少し下がった。

「……ごめんなさい。そうですよね。その通りです」
「分かればいいんだよ」
「なんだか、無意識のうちに、お酒のせいであぁなったんだって考えちゃって。本当は彼も悪い人じゃないんだからって、思っちゃて……」
「この、お人好し」

 それ以上、の口から他の男の話を聞きたくなかった。土方は唇を重ねての声を奪う。お前は俺のものだ、その印を残すように強引に、息継ぎもせず、ただ強く唇を押し付ける。酸素が足りずに苦しくなるまでそうする。

「二度と、俺以外の男に触らせんな」

 は切羽詰まったような顔で忙しなく頷くと、土方の首に腕を回し、爪先立ちになって土方の唇を求めてきた。首にの体重がかかる。その重さが嬉しかった。土方の両腕がの腰の、ほどけかけた帯の下で強く体を支えると、の爪先が地面を離れた。

 蜜を吸うように互いの唇や舌をむさぼりながら、手探りで離れの扉を開ける。敷居を跨ぐと、そこは土間で、すぐ右手にはこじんまりとした台所があった。

 土方はの体を抱え上げると、流しの横の作業台にを座らせた。は着物の裾を割って足を開き、その中に土方を迎え入れた。

 唇の端から涎を垂らしながら、呼吸を忘れるほど夢中で唇をむさぼり合った。当然、酸素が足りなくなって、頭がぼうっとしてくる。理性も、冷静な判断力も失われていく。互いの体を求めるだけの獣になる。

 が手探りで土方のベルトのバックルを外す。その下から飛び出してきたものを、土方はの足の間、着物と下着をかき分けた一番奥まで埋めた。途端に、は首をのけぞらせながらびくびく震え、喉の奥から甘くかすれた声を漏らす。

 の中から出たり入ったりを繰り返し、焼けるように熱いの中を擦り続ける。の体に刻み付けるように。他の男など目に入らなくなるよう、強く、深く、体に覚え込ませるように。

 土方は、頭の片隅に残ったほんの少しの理性が自嘲するのを感じた。

 酔った勢いでを襲った隊士がしようとしたことと、今自分がしていることは全く同じだ。台所で襲い掛かって、どうしようもない衝動に突き動かされ、それを言い訳にして避妊もしない。その先にやってくるかもしれない未来などないようなふりをして、覚悟もないまま欲望をぶつけている。

 そんな自分が、を窮地から助けて守ってやったというとは、とんだ茶番だ。土方は唇を噛むように笑った。激しく腰を打ち付けながら、の舌を嬲りながら。

 の足が土方の腰に絡んできた。まるで蜘蛛が八本の足で獲物を羽交い絞めにするように。その両足に力を込め、は自ら腰を揺らす。

 手のひら一枚分ほどの距離で、の瞳を覗き込む。涙はもう乾いていたけれど、快楽に酔った瞳はとろけるような光を宿している。その目が、欲しい、と言っていた。

 唇は喘ぎ声が後から後から溢れてきて、言葉を差し挟む余地がない。その代わり、ふたつの目がこれ以上なく雄弁に語る。瞳は心を覗く透明な窓だ。

 土方の腰の奥に火が着いた。こうなったらもう、激しく、体を叩きつけるように抱くしかなかった。が欲しがっているものを一滴も取りこぼさず与えたい。を傷つけてしまう恐れが胸をかすめたけれど、腕の中で悦びうち震えるを見てるいると、そんなものは霧のように霧散した。

 あの隊士がしようとしたことと、自分がしていること。そこに差があるとすれば、の許しがあるかどうかだ。隊士は拒否され、土方は許された。の許しは愛なのだ。は自分を愛している。求めている。そこには、怒りも恐れも、過去も未来もない。

 ありったけの精を注ぎ込んで脱力した土方を、は両手両足を使って全力で抱きしめてた。



 体の火照りが冷めるのを待って、申し訳程度に着物を整えると、土方とは三和土に並んで腰を下ろし、コップ一杯の水を分け合った。激しい運動の後には、冷たい水が一番美味い。

「今夜はお祝いの席なのに、水を差しちゃいましたね」

 は、宴会のために用意した酒と肴を食堂に置きっぱなしにしてきてしまったことを気にしているようだった。

「気にすんな。酒が足りなくなりゃ、自分で調達するだろう。それに、何があったか分かってる奴らがちゃんとフォローしてくれるさ」

 母屋の方から、風に乗って大きな笑い声が聞こえてくる。どうやら、宴会は滞りなく進んでいるようだ。はほっと胸を撫で下ろし、コップの縁を舐めるように水を口に含む。その手がそっと下腹部を撫でるのを見て、土方はどきりとした。

 片岡ができちゃった結婚だったことを、も知らないはずはない。その話をするチャンスが巡ってきたのではないだろうか。とはいえ、こんな話をどう切り出したらいいものか、土方はぐるぐる考え込んでしまう。

「土方さん」

 が先に口を開いた。

「な、なんだ?」
「まだちゃんとお礼を言ってなかったですよね」

 襲われかけたところを助けたことだろうか。土方は上の空で答えた。

「あれくらいは、当然だろ。礼を言われるようなことじゃない」
「でも、本当に助かりました。ありがとうございます。それに……」

 は照れ臭そうに微笑むと、コップを土方に差し出す。土方はそれを受け取って少し唇を湿らせた。今更緊張してしまって、口の中が乾き始めていた。

「お前は俺のものだって言ってくれて、嬉しかったです」

 土方は顔をしかめた。あの時はとっさにそう言ったが、振り返ってみると酷く身勝手な言葉のように思えて、胸の中に苦いものが満ちる。

「お前が馬鹿なことばっかり言うから、分からせてやるために言ったんだ」
「すごく効きました」
「そうかよ」

 それが結果的に、を縛る力を持たなければいいと思う。に対して、強い独占欲があることは認めざるを得ない。けれど、を誰の目にも触れないようどこかに隠してしまいたいなどと、本気で思っているわけではない。そんなこと考えてしまうほどに、を可愛いと思う、その思いの強さが独占欲という形を取る。

「私、あんまり自分に自信がないんです」

 言葉とは裏腹に、は真っ直ぐに前を向いて言った。

「何か悪いことが起こると、私が何か間違ったんだ、悪いことをしたんだって、つい考えちゃって……。悪い癖だって、分かってるんですけど、癖ってなかなか変えられません。でも、土方さんが私を好きでいてくれると思うと、こんな私でも胸を張れます。背筋がしゃんとします」

 くるりと土方を振り向いたは、花がほころんだような笑顔だった。

「土方さんのおかげです」
「……俺から言わせりゃ、自信があろうがなかろうが、お前は大して変わらんがな」
「そうですか?」
「あぁ。仕事馬鹿で、お人好しで、損な役回りばっかり引き受けて、いつもへらへら笑ってあちこちに愛想振りまいてよ。だから他人に付け入る隙を与えることになるんだ」
「別に、損なんかしてませんよ?」
「自分で気づいてないだけだろ」
「そんなに鈍いつもりもないです」
「いや、鈍いだろ。今日のお前の行動を振り返ってみろよ。どの口でそんなこと言いやがる」
「そんなことないですってば」
「なら教えてやる。お前は必要以上に人に優しくし過ぎるんだよ。男なんてのは単純な生き物で、ちょっと優しくされただけで好かれてると思い込んじまうんだ。これからは、勘違いされねぇように身を慎め。分かったか?」
「それって、土方さんが焼きもち焼いてるだけなんじゃありません?」
「この期に及んでまだ言うか?」

 そうやって押し問答をしているうちに、だんだん馬鹿らしくなって、ふたりで声を揃えて笑った。

 自分のことに鈍いところも、お人好しで損な役回りばかり演じてしまうところも、の魅力のひとつだ。可愛くて、守ってやりたくてしょうがない。今夜のように、度が過ぎると腹が立つこともある。けれど、こうしてちゃんと話し合えば、落としどころは見つかるし、そうできなくても笑い飛ばしてしまえばいい。愛することは、許すことだ。何度腹を立てても、何度でも許せばいい。

 いつか、の腹の中に、新しい命が宿る時がくるのだろうか。こういうものは授かりものだというし、欲しいと願えば必ず手に入れられるものでもない。結局は、運任せだ。今夜のことで分かったことは、それがを傷つける恐れはないということだ。土方は何よりそのことにほっとしていた。

 祈るように腹に添えられたの手を、土方はぎゅっと握り締めた。



title by Mr,Children「隔たり」


20210223