激しい雨の夜だ。

 急速に発達した低気圧が今夜、江戸の上空を縦断する。今年一番の降水量が予想され、各種公共交通機関は繰り上げ運休を決定、市民は最大限の警戒を。そうテレビの中から呼びかけるアナウンサーの声も聞こえなくなるほどの激しい雨音が響いている。

 仕方がなくテレビを消したは、裁縫の仕事を黙々と続けていた。こんな夜は、シャツのボタンを縫いつけたり、ほつれた襟元を繕ったり、つい溜め込んでしまいがちな細々した作業を片付けるにはちょうどいい。

 そこへ土方が顔を見せたのは、雨風がますます激しさを増してきた夜更けだった。

「なんだ、お前、まだ仕事してたのか?」

 は微笑みと共に答えた。

「えぇ。土方さんは夜勤ですか?」

 この天候では、いつどこで何が起こるか分からない。公共物の破損や事故などが起これば、警察はどんな状況でも出動しなければならない。真選組は今夜、安心して眠ることはできないだろう。

「あぁ。ついさっき、どっかから飛んできた板が会議室の雨戸を突き破ってな。応急処置をさせてるんだが、他にも危ねぇところがないか見回ってたところだ」
「そうだったんですか。私も何か手伝いましょうか?」
「いや、手は足りてる。それよか」

 土方は煙草を指に挟み、その手での膝の上を指差した。

「それは急ぎの仕事なのか?」

 は苦笑いをして首を横に振る。

「いいえ。でも、こんな夜は騒がしくて寝つけませんから」
「寝付けないにしても、せめて部屋に戻ったらどうだ? 仕事部屋にいたら気が休まらんだろう」

 土方の声には優しい気遣いがあって、その言葉だけでの胸はほんのりと温かくなる。たったひと言で簡単に浮上してしまう単純さに、は自分の弱さを自覚せずにはいられなかった。

 瓦屋根や雨戸を叩きつける雨は、火事の火元を目掛けて集中放水しているかのような激しさで降り注いでいる。強い風に煽られた雨戸がみしみしと悲鳴を上げ、ともすると、建物ごと吹き飛ばされてしまうのではないかと心配になるほどだ。が私室としてあてがわれている離れは作りが小ぢんまりとしていて、その心配は母屋の比ではない。

 は今夜、ひとりで部屋に戻るのが心細かった。夜通し働いている隊士達の近くにいた方が、ずっと安心していられそうだったのだ。

「今夜は、ここにいたい気分なんです」

 そう答えたに、土方は何か閃いたように瞬きをしてにやりと笑った。

「さてはお前、怖いんだな?」

 は思わずきょとんとした。怖いという言葉は、なんとなく心にそぐわないような気がする。勢いが強いとはいえ、ただの雨と風なのだ。小さな子供でもあるまいし。

「いいえ、少し気分が落ち着かないだけです」
「それはつまり、怖いってことだろう」
「違います。離れは建物の作りが弱いんです。だから、用心のために避難してるんです」

 大人として冷静な判断をしたまでだ、はきっぱりと言う。。ところが土方は、の言い分を一笑に付した。お前の嘘など通用しないとでも言いたげだ。

 どうやら土方はからかっているらしい。仕事部屋の戸を閉じてどかりと腰を下ろし、上着を脱いで勝手にくつろぎ始めてしまった。

「しょうがねぇな。そんなに怖いなら、しばらく一緒にいてやるよ」

 は呆気に取られた。

「だから、そんなんじゃありませんってば」
「気にするな、俺も少し休みたかったところだからな」
「頼んでません。現場の指揮はどうするんです?」
「ちょっとくらい平気だろ」

 はものも言えなかった。つまり、理由を理由をつけてサボりたいだけだ。近藤や沖田が仕事を抜け出して、ストーキングしたり、方々を遊び歩いていることには目くじらを立てて文句を言うくせに、自分のことは棚に上げている。

 土方はすぱすぱと気持ち良さそうに煙草を吸っていて、自分の部屋に戻ったような落ち着きぶりだ。この様子ではてこでも動きそうにない。

 は仕方なく、夕方に煮出して魔法瓶に入れておいたほうじ茶を、土方のために湯呑みに注いでやった。

「どうぞ」
「あぁ、悪いな」
「いいえ、仕方がありませんから……」

 と、その時だ。なんの前触れもなく、ぶちんと部屋の灯りが消えた。一寸先も見えない闇に飲まれて、は思わす声をあげる。

「きゃっ!」

 土方は至って落ち着いて呟いた。

「停電したか」

 パチン、という音とともに、土方の顔に白い光が当たった。携帯電話の液晶の明かりだ。土方はそれを耳元に当てる。

「原田か。あぁ、そうだ。非常用電源を使え。どこって、倉だよ、表の。馬鹿言ってんじゃねぇ、いいからさっさとやれ」

 電話を切った土方は、不満そうに悪態を吐いた。

「こんな雨の中、外に出たくねぇだとよ。ったく、甘ったれやがって」

 雨風はますます勢いを増し、屋根瓦を叩き割ろうとでもするように強く降り注いでいる。そんな暴風雨の中、外の蔵から大きく重い非常用電源を取り出してくるのは重労働だし、危険だ。それを頼まれた原田の気持ちも、には分からなくもない。もし原田と同じ立場だったら断固拒否しただろう。

 灯りのない真っ暗闇、雨と風に叩きつけられることを想像するだけで足が竦む。

 ふと、土方は携帯をの方へ向けて苦笑した。

「そんな顔すんなよ。ただの停電だろ」

 は縫いかけのシャツを握りしめたまま、顔を強張らせて固まっていた。ぎゅっと肩をすくめ、目に見えない何かが今にも襲いかかってくるのを待ち受けているように緊張している。

「やっぱり怖がってたんじゃねぇか」
「違います。別に、びっくりしただけです!」

 言葉とは裏腹に声が裏返ってしまう。気まずそうに唇を噛んだを、土方はなだめるように笑った。

「まぁ、ひとまずそれをしまえよ」

 は縫い針を持ったままだった。この暗闇では、針で怪我をしてしまいかねない。

 は針山に針を刺そうとした。が、その手がテーブルの端に置いてあった魔法瓶にぶつかった。がたん、と大きな音を立てて倒れた魔法瓶は、ごろごろと転がり、ほうじ茶が満たされた湯呑をテーブルから突き落としてしまった。

「あっちぃ!」

 熱いほうじ茶をもろに被ってしまった土方が飛び上がって悲鳴を上げる。

「やだ、すいません!」

 も慌てて腰を上げたが、どこに何があるかも定かでない暗闇ではとっさに手も出せない。

「大丈夫ですか? 火傷してませんか?」
「あぁ、たぶんな。何か拭くものないか?」
「えっと、あぁ、直したばかりの隊服ならありますけど」
「じゃぁ、それに着替える」

 が手探りで隊服を引き寄せた隊服は、ほつれたポケットを付け直したばかりのものだ。

 土方は受け取った隊服を広げてみる。手にした感じでは、サイズはちょうど良さそうだ。ベルトを外し、濡れて肌に張り付く隊服を剥がすように脱ぐ。ほうじ茶を被ってしまった太腿を確認する。少しひりひりするが、大したことはなさそうだった。

 ファスナーを上げて振り返ると、は律義に土方に背を向けて目を伏せていた。

 携帯電話の液晶はとっくに消えている。わざわざ気を遣わなくても何も見えはしないのに、土方は吹き出しそうになるのをこらえながら、の真後ろに腰を下ろした。ついさっきまで座っていた場所は、こぼれたほうじ茶で湿っていたし、頼りなく小さなの背中が愛おしくて、つい触れたくなる。

「助かった、ありがとうな」

 土方がそう言うと、は小さく首を横に振った。

「いいえ、ごめんなさい。火傷がなくて良かったです」
「珍しいな。お前がこんなポカやらかすなんて」
「……すいません、本当に」

 は、土方が想像した以上に落ち込んでいた。ずん、と沈んだ声に、土方はとっさにの肩を叩いた。

「おいおい、そんなにへこむなよ。別に怒ってねぇぞ」
「いえ、へこんでいるわけではなくて……」

 のため息は、激しさを増す雨と風の騒音に紛れてほとんど聞き取れなかった。バン! と、脅かすように雨戸を叩く暴風は、まるで巨人の手が力任せに屯所を殴りつけているのかと思えるほどだ。大きな音が立つ度、土方の手の中での肩が小さく震えていた。

「……嫌ですね、ちょっと天気が悪いだけでこんなに調子が狂っちゃうなんて、情けないです」

 土方は、遠慮がちにそっとの顔をのぞき込んだ。だんだんと暗闇に目が慣れてきたが、表情まではっきりとは分からない。の黒い真珠のような瞳が、闇の中で濡れて光っていることだけが分かる。

 微笑みの気配を漂わせながら、は声を震わせた。

「ごめんなさい。私、どうしちゃったんでしょう。自分でも分からないんです」
「女は普通、苦手なもんなんじゃないのか? 嵐とか、雷とかはよ」
「女でも平気な人はいると思いますよ」
「そうか。だからって、そんな、この世の終わりみたいな顔することはねぇだろ」
「顔、見えてないでしょ」
「見えなくてもだいたい分かる」

 の手が、肩を撫でる土方の手に重なる。ゆっくりと指を絡めながら、は遠慮がちに土方の胸に体を寄せた。

 雨戸や屋根を叩く激しい雨風に怯え、震えるは、どこか親に見捨てられた子供に似ていた。

 土方はこれまでに何度か、迷子の子供を保護したことがある。幕府直轄の武装組織・真選組は攘夷浪士を取り締まるため血生臭い現場に出ることの方が圧倒的に多いが、困った市民に出くわせば、普通のおまわりのような仕事もすることもある。

 どうしてそんなことを思い出したのか、土方には分からなかったけれど、嵐の夜に怯えて震えるは無条件に可愛くて、愛おしかった。自分が守ってやらなければと、強い想いが腹の底から湧き上がってくる。自分を頼って体を預けてくるの信頼に、答えたかった。

「なぁ、今度は正直に答えろよ」
「何ですか?」
「怖いんだろう?」

 は、ついに観念したようにため息を吐いた。その声は、疲れた微笑みがひらりと揺れるようだった。

「はい、怖いです。良ければ、しばらく一緒にいてもらえませんか?」

 土方は、ようやく素直になったを、腕の中に深く閉じ込めた。

「最初からそう言ってる」





20210113