松平から急な呼び出しがあったのは、やっとのことで今日の仕事を片づけた真夜中近くだった。
凝り固まった肩をほぐしてスカーフをほどき、上着を脱ぎ、ベストを脱ぎ捨てシャツのボタンに手をかけた時、携帯電話が点滅しながら奏でたメロディを聞いた土方の心境を、正しく表現できる人間はそういないだろう。
呼び出された先はかぶき町で、お忍びで城下に遊びにやってきた将軍の面倒を見ろという命令だった。貴重な睡眠時間をそんなことに費やすくらいなら他にやりたいことがいくらでもある。けれど、他でもない松平の命令だ。従わないわけにはいかない。
土方は脱いだベストをもう一度着込み、スカーフを首に引っ掛け、上着を手に取り部屋を出た。足を止めずに電話をかけて車と夜勤の隊士を手配する。
とはいえ、足取りはひどく重い。ため息を吐きながらだらだらと歩いていた時だ。
「あ、土方さん」
食堂から
が顔を見せた。前掛けは外しているが、袖にたすき掛けの皺が残っているところを見ると、たった今まで仕事をしていたようだ。
「お前、まだ起きてたのか?」
疲れと不機嫌が相まって責めるような声を出してしまったが、
は物怖じせずに答えた。
「えぇ、ちょっとやることがあって。土方さんは、こんな時間からお出かけですか? 何か事件でも?」
「松平のとっつぁんから呼び出しだ。将軍様の夜遊びに付き合えとよ」
「まぁ、ご苦労様です」
「全く、迷惑な話だ」
「お戻りは?」
「さぁ、たぶん朝になると思う」
それじゃ行ってくる、と足を踏み出しかけて、土方はおや、と目を見張った。
が行く手を塞ぐように目の前に立ったまま動かないのだ。何か言いたそうな顔をして目を伏せ、かと思うと明後日の方向を見やって考え込んでいる。
「どうした? なんかあったのか?」
は明らかに作り笑いと分かる笑顔で答えた。
「いえ、大したことじゃないんですけど、あの……」
「悪いが、車待たせてるんだ。もう行かねぇと」
土方は
の肩を押しやったが、
はそれに逆らって土方の目の前に迫った。
「あの、3分だけ、お時間いただけませんか?」
「何だよ? 話したいことでもあんのか?」
「まぁ、そのようなものなんで」
「じゃぁ、さっさと言えよ」
「えっと、その、明日の朝ご飯なんですけど、西京焼きなんです!」
土方は首をひねる。急いでいるところを足止めするくらいだからどんなに大切な話かと思ったのに、朝食の話?
は間髪入れずにまくしたてる。
「新鮮なお魚が安く入ったのでとても美味しいと思うんです。お戻りになるまで取っておきますから声をかけてくださいね。それから……」
はしどろもどろになりながらも、言葉を切らない。明らかに様子がおかしかった。元々、言いたいことははっきり言う方だけれど、朝食の献立なんてちんけ話題で土方の足止めをするとは、これは何かかわけがありそうだ。
土方の脳裏に浮かんだのは、俗っぽい想像だった。
「お前、もしかして、俺の部屋に来ようとしてたのか?」
どうやら図星らしい。
の目が驚きに丸くなって、頬に赤みが差す。
「えーっと、実はそうです」
「こんな夜中に?」
「すいません、お仕事中にご迷惑かとは思ったんですけど、どうしても……」
土方はその言葉を遮って、
の手を取っってぐっと力を込めた。バランスを崩した
はたたらを踏み、土方が操るまま壁に背中をぶつける。
「どうしても、なんだよ?」
土方が挑発するように言うと、
は視線を泳がせて言葉を濁した。
「いえ、あの、だから、えっと、その」
「はっきり言わねぇのはお前らしくねぇぞ。それとも何か? 俺には言えねぇことでも企んでたのか?」
「そんなんじゃないです。ただ……!」
言い終わる前に、土方は唇を重ねて
を黙らせた。
柔らかい唇の向こうで、
の呼吸が止まるのが分かる。意地悪なことを言ってしまったこと、驚かせてしまったのが可哀想で、慰めるように優しく上唇を食む。指の腹で頬を撫でてやると緊張が緩んで、ふっと息が絡んだ。
の吐息はほのかに甘い、いい匂いがする。松平の呼び出しさえなければ、このまま
を部屋に連れて帰って全身でこの甘さを味わい尽くしてやるのにと思いながら、土方は思う存分
の唇を吸った。
「今日は、これで勘弁しろよな」
土方は自分に言い聞かせるようにそう呟き、断腸の思いで
の手を離そうとした。
ところが、
は逆に土方の手を掴んで引き留めた。
「あの、土方さん。あと少しだけ、待ってほしいんです」
「はぁ? お前、いい加減にしろよ」
「あと30秒だけ! お願いします!」
そう言うなり、
はなりふり構わず土方の胸に飛び込んできた。とっさに受け止めてしまったが、土方は柄にもなく当惑した。
からこんなに積極的に求められたことが今まであっただろうか。
自分から始めたことはいえ、屯所の廊下のど真ん中で、こんなことをしている場合ではない。車を待たせているし、いつまで経っても土方が現れなければ、誰かが様子を見に来てしまうかもしれない。こんなところを見られたら士道不覚悟で切腹だ。
「おい、いい加減にしろよ。本当にそろそろ行かねぇとまずいんだって」
口ではそう言いながら、土方は激しく葛藤する。
の細い腕のどこにそんな力が隠れているのか、信じられないほど
の力は強かった。とても振り払えない。
「
、頼むから……」
と、土方が言いかけた時だった。
ボーン
と、低く静かな響きが真夜中の屯所に広がった。
それは食堂にある大時計の響きで、一時間に一度、時を知らせる仕掛けがされている。ちょうど深夜12時、新しい一日のはじまりだ。
「土方さん!」
と、
が満面の笑みを浮かべてこう言った。
「お誕生日、おめでとうございます!」
土方は呆気にとられ、ぽかんと目を見開く。
少し考えて、ようやく今日が何の日なのかを思い出した。
「あぁ、そういや明日……、いや、今日だったか」
はついさっきまで白々しい態度が嘘のような朗らかな顔して、土方の胸元に手を伸ばす。そして、
がしがみついたせいで乱れてしまったスカーフの形を手早く整えてくれた。
「日付が変わったら一番に言おうと思ってたんです。間に合って良かった」
「それならそうとはっきり言えばいいだろうか。なんであんなしどろもどろになってたんだよ?」
「だって、驚かせたかったんですもの。それに、誰よりも早くお祝いしたかったんです」
土方はなんだか照れ臭くなってしまって、口元を手のひらでこすった。
がそわそわしながら幾度も目を反らしていたのは、時計の針を確認していたからで、別に破廉恥なことを考えていたわけではなかったのだ。むしろそれは自分の方だったのだと思うとみっともなくていたたまれない。
「なんか、すまん」
はにこりと笑って首を横に振る。
「いいえ。皆さんがお待ちですよ。早く行かないと」
「お前が言うな、分かってるよ」
はスカーフの形を満足のいくように整えると、土方の胸を優しく叩いた。
「できました。明日、お祝いしましょうね」
まるで自分のことのように嬉しそうな顔をする
を見ていると、後ろ髪を引かれて仕方がない。けれどこれ以上隊士を待たせておくわけには行かない。
「それじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
見送る
の声に、後ろ手に手を振って答えた。
20200505 Happy Birthday!