「お前らもそろそろ江戸の女の味を覚えておけ」

 松平のおっさんがまたわけのわからないことを言い出したとげんなりして、土方は仏頂面を隠さずにため息をついた。

 警察庁長官・松平片栗虎は文字通り江戸の警察組織を束ねるトップであり、真選組の後ろ盾としてこれ以上ないほど世話になっている間柄だが、ときどき、もっともらしいことを言ってわけのわからないことを言い出すところは始末に負えない、というのが土方の評価だった。松平がいなければ真選組は成り立たない。自分たちの立場は分かっているし、何かと問題を起こしがちな隊士達に助け舟を出してくれることに恩義を感じてはいるが、理解できない理屈で振り回されることは、毎度毎度苦渋を飲まされる。

 他でもない松平の命令を断れるはずはないのだと自分を説得させて付き従ってやってきたそこは、遊郭だった。

 広い座敷に二列に並んだお膳、そこに慣れない顔をして座る隊士達、その間を埋めるように着飾った遊女達が居並ぶ。上座には松平と、その息子ほどの年に見える青年が座っていた。征夷大将軍・徳川茂茂である。

 つまり、女の味を覚えろというのは方便で、将軍の廓遊びの盛り上げ役として、またはお忍びで城外へ出た将軍の隠れ蓑として、真選組は体良く使われたのだ。土方はそう理解した。

 剣の腕でこの身を立て、一人前の侍になろうと決心して江戸に出てきたというのに、やっていることは税金を使って廓遊びをする将軍のお供という現実に虚しくなる。こんなことをするために一念発起して江戸に出てきたわけではない。一人前の侍になるためにこつこつと努力を怠らずにきたつもりだが、どこかで道を誤ったのだろうか。思い返しそうとするが、眩しいほどにきらびやかに飾られた座敷に、これでもかと供される酒と遊女の白粉の匂い、芸者が奏でる太鼓と三味線の音と酔い混じりの笑い声が鬱陶しくて考えがまとまらなかった。

 頭を抱えてため息をついた土方に声をかけたのは、空いた銚子を下げにきた遊女だった。

「お侍様、ご気分でも悪いんですか? お水でもお持ちしましょうか?」
「いや、なんでもない。気にするな」
「そうですか。お部屋も用意してありますから、遠慮なくお申し付けくださいね」

 その遊女は労わるような微笑みを浮かべて離れていった。

 宴もたけなわの頃、お前はどの子にすると問われてその遊女を指差したのは、言ってしまえばそれだけの理由だった。人の顔を見て色めき立ち、競うように隣に侍っては酌をし、白粉を塗りたくった白い顔を近づけてくる姦しい女よりはましに思えた、それだけだ。

 金で女を買う趣味はなかった。ましてやその金は市民の血税である。将軍のおこぼれにあずかって楽しむ気にもなれなかった。

 ただ面倒ごとをやり過ごすための夜なのだから、できるだけ扱いやすそうで手間が少なそうな女で手を打ちたかった。



「椿です」

 土方が通された部屋に少し遅れてやってきた遊女は、三つ指をついてそう名乗った。宴の席で纏っていた重そうな着物は脱いでいて、桃色の帯を締めた真っ赤な襦袢の上に椿の花が散った鮮やかな打掛を羽織っていた。

 滑るように土方の隣にやってくると、土方にお猪口を持たせて静かに銚子を傾ける。

「お前も飲むか」
「ありがとうございます。いただきます」

 土方が酌をしてやると、椿は白く細い指でしずしずとお猪口を持ち上げて口元に運ぶ。朱色の紅を差した唇がお猪口の縁を舐めるような仕草に、土方は不覚にもどぎまぎしてしまう。

 それに気づいたのか、上目遣いに視線をあげた遊女と目が合った。とっさに視線をそらしてしまったことが、我ながらいかにも青臭かった。

「まだお名前を伺ってませんでしたね」

 と、椿は言う。

「どうせ外で聞いたんだろ」
「それはそうですけど、お侍様の口からちゃんと聞きたいんです」
「土方だ」
「下のお名前は?」
「十四郎」
「十四郎様」

 椿は甘えるような声を出しながら、土方の肩にしどけなくもたれかかり、その手の甲に自分の手を滑らせてくる。

 土方はとっさにその手を振り払ってしまった。

「あのな、俺は今夜そういう気はねぇんだ。ほっといてくれねぇか?」

 椿はぱちくりと目を瞬かせて首を傾げた。

「そういう気は無いって、でも、ここは遊郭ですよ?」
「そんなことは分かってる」
「なら」
「将軍様がお楽しみになるために必要だから来たんだ。もし将軍様の身に何か起こればすぐ駆けつけなけりゃいけねぇ。悪いがお前の相手をしている暇はない」

 と、隣の部屋から大きな物音がした。武州時代からよく知っている仲間の声だ。土方が聞いたこともない猫なで声に、遊女が楽しそうな悲鳴を上げて応えている。一体どんなやり方をしているのか、どったんばったんと騒がしいったらない。

「お隣は、楽しんでいらっしゃるみたいですね」
「ったく、締まりがねぇ奴……」

 土方は眉間にしわを寄せると、椿は鈴の鳴るような声で笑った。

「ここはそういう場所ですよ。一夜の夢を見て、俗世の垢を落とすんです。お客様からは刀を預かるのが決まりですし、将軍様には何の問題も起こりませんよ」
「なんでそう言い切れる?」
「将軍様の身に何か起こったら、困るのは私達も同じですもの。いくらお忍びでのお越しとはいえ、少しでもお気に召さないことがあったら廓の評判に障ります。女将さんがこれ以上ないくらい準備万端整えてますから、大丈夫です」

 確かに、椿の言うことも一理ある。何も将軍の動向に目を光らせているのは土方だけではないし、松平もあぁ見えて馬鹿ではない。将軍をここまで連れ出すからにはそれ相応の準備をしているだろう。。

 膝の上に手を置いて、誘うような眼差しを向けてくる椿を見やって、土方は思った。この女には、見かけよりも鋭いところがあるような気がした。

「だから、十四郎様も楽しみましょう」
「言っただろう。気分じゃねぇんだ。将軍様のこと差し置いてもな」
「じゃぁ、どうして私がいいって言ってくださったんですか?」
「お前が一番物分かりがよさそうに見えたんだよ」
「まぁ、それ褒めてるんですか?」
「そのつもりだったんだが、外れたみたいだな」
「そりゃそうですよ。遊郭に来ておいて床に入らないだなんて、十四郎様の方がどうかしてらっしゃいます」
「そんなに寝たいならひとりで寝ろよ」
「そんないけずなこと言わないでくださいませ。お客様より遊女が先に寝たりなんかしたら女将さんに怒られます。そんなの私、嫌です」
「黙っておいてやるよ」
「そんなの通用しませんってば」
「お前、しつこいな」
「十四郎様は頑固ね」

 ふたり、しばらくにらみ合った。およそ、遊女とその客が交わす視線とは思われないほど、険しい時間が過ぎる。どれほどそうしていたか、どちらからともなく堪え切れなくなった笑みをこぼしてしまった。隣の部屋から聞こえる声がますます激しく、あられもない悲鳴をともなって聞こえてくるからだった。

 こんな状況で、真剣な顔をして睨み合っていろと言う方が滑稽だった。

「すまんな、うちの隊士は加減を知らんらしい」
「いいえ、こちらも大袈裟で恥ずかしいです」

 ひとしきり笑った椿は浮いた涙を拭うと、もう一度土方の肩にもたれかかってきた。

「抱いて下さらなくていいから、こうしていてもいいですか? 少し寒いの」

 土方は口を閉ざしたまま、それに応と答えた。確かに、今夜は少し冷える。

 隣から聞こえてくる物音は、山を登りつめたような激しくなった後はぱたりと止んだ。それからは静かなもので、しばらくふたり寄り添ったまま、その静寂を味わった。

 ふと、肩のあたりで、あくびをかみ殺すような気配がした。

「眠いんなら寝ていいぞ」

 土方は椿の肩を揺らす。
 椿ははっとして、潤んだ目で土方を見やった。

「言ったでしょう。お客より先に寝入ったら怒られますって」
「だから、黙っててやるって」
「この話、もう終わったと思ってました」
「奇遇だな、俺もだよ」
「休む気がないなら、お話ししてくれません?」
「はなし?」
「何か、面白い話」
「そういうのは苦手なんだよ」
「話してくれたらもうねだらないって約束します」

 土方は少し悩んだが、不思議なことに自然と言葉が口から滑り落ちてきた。故郷の話と仲間の話だ。道場のこと、クソ生意気な年下の兄弟子のこと、尊敬する大将、個性豊かな仲間達、一緒に水浴びをした川、そこで取れる魚の種類、美味い食べ方、秋の野山で取れる山菜や果実、熊と出会い頭にやりあったこと、打ち負かした熊を鍋にして食べたこと。

 自分でも意外なほどすらすらと言葉が出てきた。そんなことははじめてのことで、新しい星を見つけた天文学者のような新鮮な驚きが胸に満ちる。こんなにお喋りな自分は一体今までどこに隠れていたのだろうと思うと、不思議でたまらなかった。

 椿は興味深そうにいちいち頷きながら、土方の話を聞いていた。眠そうに潤んでいた瞳が、話を重ねるにつれて輝きを増していくのが、土方には興味深かった。

 話が尽きないのは、椿が親身に耳を傾けてくれるからだった。もっと聞かせてとか、先をせがむようなことは一度もなかったけれど、なんでもない些細な話に笑ってくれたり、土方がこう思ったと言えば必ず共感を寄せてくれた。話題に出した仲間の名前を覚えようとしてくれたことが、嬉しかった。

 土方が話をしている間、椿はあれこれと土方の身の回りの世話を焼いた。酒は絶やさなかった。冷え込みが強くなると、火鉢に炭を足してくれ、着物の裾に糸屑が付いているのを見つけるとひょいと指でつまんでくれた。土方が伸びた前髪を鬱陶しそうにかきあげると、手を伸ばして額を撫でてくれた。

 氷のように冷たい手に肌を撫でられるのに、ちっとも嫌な気は怒らなかった。

 だんだんと喋り疲れて口が重くなってくる。話を聞きながら土方のひとつに結った長い髪を指で梳いていた椿がふいに、結い紐をするりと解いた。雪崩を打った髪が頰に落ちて、土方ははっとする。

「おい、何をしやがる」

 椿は土方が伸ばした手をするりと交わした。細い指に結い紐を絡めて遊んで、にやにやと誘うように笑っている。

「綺麗な髪ですね」
「返せ」
「いやです」
「おい」

 椿は膝を擦って逃げる。土方も思わず腰を浮かせた。狭い部屋だ、すぐに追いつく。椿の手を捕えると、足が何かに絡んで、倒れ込んだ先は毒々しい朱色の布団の上だった。

 土方に腕を掴まれて布団に押し倒されるような格好になった椿は、してやったりと言いたげに笑っていた。土方はむっと唇を噛む。椿を捕まえているのは自分なのに、まるで罠にかけられたような気分だ。

「お前な」

 と言おうとした瞬間、肩口から長い髪がばさりと落ちかかってきた。灯りが遮られて椿の顔に影ができる。薄闇の中、潤んで光る椿の瞳から、縫いとめられように目を反らせない。

 椿は土方の長い髪を愛おしむように静かに撫でた。

「本当に綺麗な髪、女の人みたい」
「誰が女だ」
「ふふっ、本当のことだもの」
「てめぇ」

 椿の腕を握る手に力がこもる。ぎしりと、音がなるほど強く握りしめる。箸より重いものを持ったことがないとでもいうように細い腕だ。視線を逸らした先に、裾の割れた襦袢から白い足が飛び出しているのが見えた。ふっくらと柔らかそうな肉付きの、しみひとつない白い肌に目の奥がちかちかした。

 椿の手が、恐る恐る土方の頰に触れた。

「本当に嫌なら無理にとは言わないけど、私は十四郎様が好きよ」
「……」
「寒いの、温めて」

 土方は頬を撫でる手を取ると、それを頭の上に縫い止めて椿の体に自分を重ねた。細くて華奢だと思っていた椿の体は想像よりずっと柔らかく弾力があって、ふわふわの雲を掴んでいるようだった。あまりやり方を知らなかったけれど、そのひとつひとつの愛撫を椿は「良い」と言ってくれた。長い髪が邪魔で何度も頭を振っていたら、椿は「まるで獅子のようだ」と言って笑いながら束ねてくれた。

 邪魔くさくて脱ぎ散らかした着物と襦袢は、いつのまにか布団の外に投げ飛ばされていた。ふたりで何度も体を震わせて快楽に酔った。違いが満足するまでそれをした。

 ことが済んで、余韻に浸っていた土方の腕の中。

 あれだけ言っていたくせに、椿は土方より先に寝入ってしまった。子供のような顔をして肩を上下しながら健やかな寝息を立てている椿を見下ろして、土方はうっそりと微笑む。はじめて椿をかわいいと思った。

 枕元に、煙草とマッチが置いてあった。椿は吸っていなかったから、おそらく客にために置いてあるものだろう。土方は手遊びにそれを手にとって火をつけてみた。吸い方は、松平の姿を真似た。恐る恐る煙を吸った途端、げほげほと咳き込んでしまう。煙が目にしみて涙まで浮かんできた。

 その音を聞きつけたのか、布団の中で椿が身じろぎをした。

「どうかしました?」
「いや、なんでもない」

 土方は涙の浮いた瞳を見られないように顔を逸らして答える。眠気が勝ったのか、椿はそれ以上何も言わずに再び眠ってしまった。

 土方はゆっくりと煙草の味を噛み締めた。意地だった。

「……苦ぇ」

 そう呟いた時、窓辺から金色の光が差した。
 雀が鳴いている。
 もう朝だった。



 伸びすぎた前髪が鬱陶しくて、土方はぶるりと頭を振って髪をかきあげる。仕事に追われて散髪に行く暇もない。今日こそ仕事を片付けて閉店前に理髪店に駆け込みたいが、目にかかるほど伸びた前髪が集中を削いでちっとも仕事が進まないという悪循環にはまっていた。

「仕事は一旦置いておいて、行っていらっしゃればいいのに」

 と、が笑い混じりに言った。

「きりのいいところまで終わらせてからじゃねぇと気持ち悪ぃんだよ」
「行けば30分で済むでしょう」
「そういう問題じゃねぇんだよ」

 ぐずぐず言いながら書類に目を通して判子を押す土方の隣で、はワイシャツのボタンを縫い付けていた。わざわざ裁縫箱を土方の部屋に持ち込んできたのは、そうでもしないと顔も合わせずに一日が終わってしまうほどすれ違いの日々が続いていたからだ。仕事の片手間にでも、互いの近況を話し合えると心が和む。理髪店にいく暇も惜しんでいるのは、それが理由でもあった。

「お前、いっそのこと、手っ取り早く切ってくれねぇか?」

 土方は判子を持った手を機械的に動かしながら、つい甘えたことを口走る。
 はそれをからっと笑い飛ばした。

「私がですか? 無理ですよ、そんなの」
「適当でいいんだぞ」
「だめです。私が下手なことしたら土方さんがかっこ悪くなっちゃう」
「はぁ、面倒くせぇな」
「いっそのこと、そのまま伸ばしたらいかがですか? 昔みたいに」
「昔みたいにって、あれは不精して切らなかったわけじゃなくてだな、いつか侍として身を立てたら髷を結うつもりでいたからだよ。もうそういうご時世じゃないからすっぱり切ったがな」
「あら、そうだったんですか。私はてっきり女みたいだのと言われたこと気にしていらしたのかと思ってました」
「確かにそんなこという奴もいたけどな」

 ふと、ひっかるものを感じて土方は口をつぐんだ。

 土方が髪を伸ばしていたのはもう昔、まだ江戸に出てきたばかりの頃、真選組がまだ浪士組と呼ばれていた頃のことだ。名を改めるのと時を同じくして、土方は背中の中程まで伸ばしていた髪をばっさりと切った。隊服は洋装だったからざんばら髪の方がしっくりきたし、もうちょんまげを結った侍が肩で風を切って市中を練り歩く時代は終わっていた。武州にいた頃はそんなことはなかったのに、江戸に出てきてからは長い髪をして女のようだとからかわれることが増え、その嫌味を受け流すのに飽き飽きしていたということもあった。全てはもう昔の話である。

 が、はその時代の話を知らないはずだ。住み込みの家政婦としてを雇ったのは、真選組屯所が今の場所に構えて後のことだった。

、お前なんで俺の髪が長かったことを知ってる?」

 はワイシャツから視線だけを上げて、すぐに戻した。

「なんで知ってると思います?」
「誰かに聞いたのか?」

 それにしては言い方がおかしかった。の声には、昔を懐かしむような雰囲気が確かにあった。人づてに聞いただけであんなニュアンスは出るまい。

「女みたいだって言われて、俺が腹立てたって何でそう思う?」
「いかにも土方さんらしい話ですから」

 は目を細めて誘うように微笑む。
 その眼差しに既視感を覚えて、土方は必死に記憶の糸を手繰り寄せた。

 土方の髪を見て女のようだと言った連中は大勢いた。隊士はもちろん、刀を交えた浪士、幕府のお偉い方、居酒屋の酔客、すれ違う子供。そして、松平に連れられて一度だけ門をくぐった遊郭で一夜を共にした遊女。もう顔もよく覚えていない。そもそも、遊女など皆同じように白塗りに紅を差した能面のような顔をしているものだ。

 土方には、忘れがたい夜だ。あの晩、あの廓で、土方は初めて苦い煙草の味を覚えたのだ。

 土方の考えていることを読んだように、は何もかも心得たように微笑んでいる。それで、土方ははっとした。

「何で今まで黙ってた!?」
「気づいてないみたいでしたし、言ってもしょうがないかなって」

 けろりと言うに、土方は開いた口が塞がらない。

 は針を動かす手を止めると、犬歯を使って糸を噛み切り、針を針山に刺してワイシャツを膝の上に広げる。袖をひとつづつ折りたたみながら言う。

「私、元々水商売をしてたのはご存知でしょう? あの日はたまたまヘルプで呼ばれたんです」
「遊郭にヘルプ?」
「将軍様がおいでになる大きな宴でしたからね。人手が必要だったんですよ」
「言えよ」
「言ったところでどうなるんです?」

 土方はぐっと唇を噛む。とこういう関係になる前にその事実を思い出していたら、気まずくてまともに目も合わせられなかっただろう。知らない方がいい真実というものも存在するものだ。

「お前は初めから気づいてたんだな?」
「はい。初めて屯所に来てご挨拶した日から。驚きましたよ、髪を切って随分印象が変わってましたから」

 はすっかり承知だったのに、自分だけがそれを知らなかった。その事実に土方は頭を抱えて唸った。廓で出会ったと、屯所に家政婦としてやってきたは、当然ながら着物も化粧も髪型も違った。あの白塗りの化粧の下に、今目の前に座っているの素顔が隠れていただなどとどうして気づけただろう。

 土方は苦し紛れに呟いた。

「気づかなくてすまん」
「私、怒ってませんよ」
「そうなのか?」
「はい。むしろ、楽しかったです。本当に、全然気づかないんですもの。まぁ、たったひと晩のことでしたし、忘れてもしょうがないと思ってましたし。私だってそういえばそんなこともあったなってたった今思い出したくらいで」

 は土方を慰めるつもりでそう言ったようだったが、土方はそれで自分を納得させることができなかった。気づくチャンスは今までもあったはずなのだ。けれどそれをことごとく見逃してきてしまった。

 のことは大事にしたいと思っているし、心からかわいく思っていて、護ってやりたいと思っている。それなのにこんな事実をつきつけられると、ちっとも目配りができていないと責められているような気になった。

 は決して土方を責めない。それをいいことにに甘えてしまっている自分に無性に腹が立つ。

 土方は積み上がった書類束を無造作に片付けると、判子をしまって朱肉に蓋をする。膝に片手をついて立ち上がりながら言う。

「散髪、行ってくる」
「はい。いってらっしゃい」
「終わるころ、外に出れるか? 飯でも食おう」
「私は大丈夫ですけど、お仕事はいいんですか?」

 土方はぐっと歯をくいしばるようにしてを睨む。はその意味を理解しかねたような顔で土方を見返している。

 土方は無性に腹立たしかった。平常心を装って退屈な仕事を続ける気にはとてもなれなかった。悔しさと恥ずかしさと、それからみっともなさとが混じり合ってぐちゃぐちゃになってなんだか分からなくなった気持ちが胸の中に渦巻いている。これをどうにかしないでいたら、そのまま汚れて腐って胸の中で悪臭を放ち始めるだろう。仕事なんかにかまけている場合ではない。

「いい」

 と、土方がぶっきらぼうに答えると、はひとつ頷いた。

「じゃ、終わる頃にいつもの場所で待ってます」
「おう」

 の笑顔に見送られて、土方は部屋を出た。

 廓での一晩、どんな風に過ごしたのかもう記憶になかったが、若い自分が大した知識を持っていなかったことは覚えている。ありあまる体力だけに頼って、それだけだっただろう。椿と名乗っていたが喜んでいたとしたら、それは客を喜ばせるための芝居だったとしか思えず、それが悔しさと恥ずかしさの元だった。

「あー、くそっ!」

 伸びすぎた前髪をかき上げて、土方は唸る。すれ違った隊士が驚いて、びくびくしながら脇に避けたのも無視した。

 土方は今年、27になった。ただ年を取ったわけではない。日々の鍛錬のお陰で、体力にはまだまだ自信がある。そして、歳を重ねた分だけ知識は増え、使える技も増えている。

 ―――今夜は見てろよ

 土方は胸中でそう呟き、両手で頬をバチンと叩いた。





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20200106