「どうしたもんかなぁ」

 近藤勲はパトカーに寄りかかって腕を組みながら、至極真面目につぶやいた。その頬は、まるでこぶとりじいさんのように赤く腫れている。

「今日こそは行けると思ったんだけどなー!」
「殴り飛ばされといてよく言う」

 近藤の隣で、土方は煙草を吹かしながらぼやいた。

 近藤の頬は、スナックすまいるのキャバ嬢、お妙の強烈な一発を受けた痕だ。並みの浪士にはまず負けることのない剣士である近藤が、ただの町娘に毎度毎度こてんぱんにされているというのは、真選組にとってあまり風聞のいいことではない。

「少しは口説き方考え直した方がいいんじゃねぇの?」

 土方はいたって真面目に言ったのだが、近藤は駄々をこねる子どものような顔で反論した。

「今日は屋根裏からでも床下からでもなく真っ正面から会いに行ったんだぞ!? 松平のとっつぁんの付き添いとして! なのに顔見るなり張り倒すことないと思わねぇか!?」
「顔見るなり抱きつこうとすりゃそりゃそうだろう。むしろ、殴られるだけで済んでよかったな。相手が違えば、通報された上に店に出入り禁止になったって文句言えねえぞ」
「んなこと言ったって、お妙さんの顔見ちまったら、この熱い想い抑えきれないんだよ!」

 近藤はふてくされて唇を尖らせ、爪先で小石を蹴る。真選組局長としての威厳はおろか、もうすぐ三十路に手が届こうというのにその年甲斐もない態度にあきれて、土方はじっとりと近藤を睨んだ。

「近藤さん。あんたがあいつにどんだけ熱を上げようがかまわねぇけどよ、もう少し立場をわきまえて行動してくれねぇか? 隊士達の目もあるんだし、真選組局長があんな小娘に振り回されてると知られちゃ体面ってものがな」
「ふんっ! どうせ、トシに俺の気持ちは分からんよ! なにせ、トシは毎日屯所でちゃんの顔見られるんだもんな!」
「はぁ? それとこれとは関係ねぇだろ!?」

 さすがに、この言葉にかちんときた土方は体を乗り出して近藤に食って掛かった。近藤も一歩も引かず、真正面から土方に対峙する。

「いーや! 関係あるね! 真選組一のモテ男はどうせなんの苦労もなくちゃんを落としたんだろ!? そんな奴に俺のこの悲しみと苦労が分かってたまるか!!」
「自分がうまくいってねぇからって八つ当たりするんじゃねぇよ!! あと想像で勝手なこと言うなぁ!!」

 スナックすまいるでは天下の将軍・徳川喜々公が庶民の暮らしを知ろうとお忍びでキャバクラ遊びに興じている。その身辺警護の最中にも関わらず、人目もはばからず大声を上げる真選組のトップふたりに、警備中の隊士達は苦笑いした。ここは誰かが止めに入るべきなのだろうが、近藤と土方が言い争うのは珍しい。その内容もほのぼのとしたものだったし、好奇心も手伝った。

 隊士達がしっかり聞き耳を立てていることに気づかず、近藤は眉尻を釣り上げて土方に凄んだ。

「なんだ!? 何が間違ってるって言うんだ!?」
「何もかもだ!! 別に俺はモテてねぇよ!!」
「嘘つけ!! すまいるに来るたびに女の子に囲まれるくせに!! 一体どの口がそんなこと言うんだ!?」
「あんなうるっせぇ商売女に囲まれたって嬉しくも何ともねぇんだよ!!」
「それをモテてねぇなんて言うのがモテ男の証拠だって言うんだ!! こんな男と付き合ってたらちゃんもさぞかし苦労が絶えないだろうな!! あーかわいそうに!!」
「だからあいつは今なんも関係ないって言ってんだろうが!!」
「いーやあるね!! ぜひとも、どうやってちゃんを落としたかどうか聞かせてもらいたいもんだな!」
「はぁ!? なんでそうなる!?」
「俺がお妙さんをストーカーして真選組の評判を落とすのが問題なんだろう? だったら正攻法でお妙さんを落とす方法を教えてくれよ!!」

 近藤は両腕を組んで踏ん反り返り、今にも「御用改めである!」とよく響く声で宣言し、討ち入りに入りそうな顔をする。その迫力に、近藤の真剣さを感じ取った土方は一瞬たじろいでしまった。

「いい歳なんだからそれくらい自分で考えろって!」
「俺がひとりで考えていてもストーカー行為が激しくなるだけだぞ、それでもいいのか!? トシ!」
「てめぇがそれを自分の口で言うのはどうかしてると思わねぇのかよ!」

 土方は半ば呆れて怒鳴ったが、近藤は一歩も引く様子がない。恥とかプライドとか、そういう言葉は近藤の辞書には載っていないらしい。
 情けないことだが土方は近藤のその肝っ玉の強さに根負けし、唇を噛み締めた。

「……別に、特別なことは何もしてねぇよ」
「何もしてねぇって、そんなわけないだろ? ちゃんと付き合い出して随分たつじゃねぇか」
「なんていうか、そのあれだ、その場の雰囲気とか流れとか、なんかそういうのあんだろうが」
「それを具体的に教えてくれって言ってんだよ」
「だから、話すようなことは何もねぇんだって!」

 土方の物言いは歯切れが悪い。ただ単純に照れているだけとは近藤には思えず、言いしぶる土方に近藤ははっとして大声を出した。

「トシ! まさかお前、ちゃんにちゃんと告白もしてないとか言わないよな!?」

 とっさに言葉が出ず、土方は黙り込んでしまった。

「おいおいトシそれはいくらなんでもあんまりなんじゃねぇのか!?」
「てめぇはいちいち声がでけぇんだよぉぉ!!」

 慌てて土方が振り返った途端、隊士達が一斉に視線をそらす。聞いていないふりをしているだけというのがばればれで、土方はあまりの居心地の悪さに顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。ちょうど店のネオンが赤く点滅して、土方の顔色に気づいた隊士はいなかったのが救いだった。

「信じられん! よくそれで付き合ってられるな!? それがモテ男のやり方か!? 汚いぞトシ!!」

 近藤は土方の両肩を掴んでがくがくと揺さぶってくる。
 土方はもう何を言うのも馬鹿らしくて、近藤にされるがままでいた。



 しばらくして、沖田と原田と警備を交代し、土方と近藤は自由の身になった。近藤ははりきってスナックすまいるに繰り出していったが、土方はひとりで家路につくことにした。屯所に戻る隊士達がパトカーの助手席を勧めてくれたけれど、隊士達の気づかわしげな、それでいてかわいそうなものを見るような生暖かい視線に耐えきれそうになかったので断った。

 とにかく、早くひとりになりたかった。

 腹が減って仕方がなかったけれど、屯所に戻ってもとっくに食堂は閉まっている時間だ。どこかで食べて帰ろうと思うが、隊服を着たまま入れる店は限られる。自然と馴染みの店に足が向いた。

 昼は定食屋、夜は簡単なつまみと酒を出す小料理屋ののれんをくぐった土方は、そのカウンターに見慣れた後姿を見つけて自分の目を疑った。

「いらっしゃい。まぁ、土方さん、こんな時間に珍しい」

 女将が接客用のよく通る声で言う。

 腰をひねって振り返ったは、土方を見つけると赤らんだ頬を緩めて笑った。

「土方さん」

 その弾んだ声に導かれるように、土方はの隣の椅子に手をかけた。

「何やってんだ? お前」
「お酒をいただいてるに決まってるでしょう」

 は芝居がかった仕草で徳利を持ち、軽く振って軽やかな水音を立てる。すっかりほろ酔いの様子だ。土方はと同じものを注文して、冷たいおしぼりでぐいと顔を拭った。

「女ひとりで酒飲んでたのか?」

 近藤と言い争ったことが、まだ頭の隅に引っかかっている。なんとなくの顔をまっすぐに見られなくて、つい憎まれ口が口をついて出たが、いやに上機嫌なは、ふわふわとつかみどころのない笑顔で答えた。

「誰かさんのおかげで暇になっちゃったんですもの」
「それは謝っただろうが」
「えぇ、別に怒ってませんよ。けど、せっかくだからたまには美味しいものを食べたいなって思っても罰は当たらないでしょ」
「こんな遅い時間に女がひとりで危ねぇって言ってんだよ」
「このお店なら大丈夫ですよ、ねぇ、女将さん」
「そうですよ、なんたって土方さんが常連なんだから」

 は女将と目を合わせると、二人一緒に同じ方向に首を傾げてくすくすと笑い合った。土方が忠告したかったことが伝わっているようには思えなかったが、これ以上何かを言うと口うるさく思われそうだ。

 今夜、本当ならば土方とはふたりきりで過ごす予定だったのだが、松平からの急な命令で、土方は将軍警護の任務に就かなければならなくなってしまったのだ。約束を破った土方に、はへそを曲げることもなく、聞き分けのいい顔をして了解してくれた。

 これ以上楽しいことはないと言いたげな笑顔で土方に酌をして、は言った。

「お仕事、ご苦労様でした」
「おう、あんがとよ」

 くい、と顎を上げて酒を煽った土方は、不覚にも酒に火照ったの顔に見とれた。ほんのりと桃色に染まった耳と首筋がなんとも言えず色っぽくて目が離せなくなる。女将には見えないところで、ブーツを履いた足での足首をすくい上げてみる。は意味ありげに微笑みながら遠慮なく土方の足の甲に足首を乗せてきた。

「意外と早く終わったんですね。今夜は帰らないのかと思ってました」
「沖田と交代したんだ。急な要請だったし、明日もあるから徹夜はきつい」
「それはそうですね」
「今日の埋め合わせは、近いうちにな」
「いつでもいいですよ」
「悪いな」
「もう慣れました」

 慣れた、という言葉に、土方の良心がずきんと痛んだ。いったい何度、にたったひとりで寂しい夜を過ごさせたんだろう。そんなことをしたいわけじゃないし、できる限り優しく接したいし大事にしたいと思っているのに、どうしてもうまくいかない。

 が文句のひとつも言ってくれれば、むしろその方が気がまぎれるのかもしれない。けれどは何度土方が約束を違えても一度も怒ったことがないのだ。「仕事なら仕方がない」と簡単に許してくれる。お人好し、というのとは違う。喧嘩をしたことがないわけでもない。ただ、割り切っているのだと思う。土方が何よりも優先することは仕事の他にないことをよく分かってくれているのだ。

 けれど、それはそれで土方には寂しいことだった。一度くらい、「私と仕事とどっちが大事なの?」とか甘えたことを言われてみたいと思う自分が、土方はおかしかった。たぶん、そう言われたら言われたで心のそこから鬱陶しいと思うのに違いないのに。

「今日はどんなお仕事だったんです? 聞いてもいいですか?」

 と、が言うので、土方は今日のできごとをかいつまんで話してやった。特に、近藤がお妙を口説くのに失敗して、芸術的と言ってもいいパンチをくらった話には、は声を上げて笑った。その後、近藤と軽い言い争いになったことはもちろん伏せた。

「近藤さんは相変わらずですね」

 笑いすぎて浮いた涙を拭いながら、は言った。

 土方は酒で体がだんだんと温まってきたのを感じながら、お猪口を傾ける。それで、唇が笑顔の形になっているのが自分でも分かった。

「真選組のトップがストーカーなんて、世間に知れ渡ったらいい物笑いの種だな」
「思うんですけど、土方さんが取り持ってあげたらいいんじゃないですか?」
「そんなのは御免だよ、面倒くせぇ」
「近藤さんのためになるとしても?」
「女を落とすのに他人の手を借りなきゃならねぇなんて、それは本当の男のすることじゃねぇよ。そういう意味でも近藤さんにはひとりでなんとかしてもらわねぇと」
「まぁ、手厳しいんですね」
「そう言うなら、お前がなんとしてやれよ」
「私が?」
「女の立場からアドバイスしてやった方が参考になるんじゃねぇの? どうしてやったら女は喜ぶのか、とかさ」
「えぇ? どうしましょう、そんなの責任重大」

 ははしゃぐように笑って、両手で頬を覆う。まるで子どものようなその仕草が芝居がかってかわいらしくて、土方は声を出して笑った。

 しばらくふたりで、近藤がどうやったらお妙を落とせるのか思いつく限りのアイデアを出し合ったが、酒の勢いもあって全く使えなさそうな案しか出てこなかった。それでも、この短い時間を楽しく過ごすには十分だった。ふたりで額を寄せ合って、いたずらを企む子どものように笑い合った。



 店を出る頃には、ずいぶん遅い時間になっていた。夜道に人通りはほとんどなく、どこかの路地裏で野良猫がごみを漁っている音がするだけだった。

 土方は川辺に立ち並ぶ柳の木の下にを誘い込んで、風に揺らぐ葉の影に隠れて口付けをした。隊服姿のまま女と逢引していたと知られれば、士道不覚悟で切腹を申し渡されてもおかしくはないが、今夜は少し気が高ぶっていた。

「これからどっか行くか?」

 口付けの合間、土方は甘い息で囁いた。
 は土方の厚い胸板に手を添えて答えた。

「でも、今夜はもう遅いし」
「いや?」
「そうじゃないですけど、さっき徹夜はきついって言ってたじゃありませんか」
「そりゃそうだけどよ」
「今度、時間ができたらゆっくりしましょう。ただ」

 は土方の首筋に額を押し付けるようにして体を寄せる。その鼻先が土方の喉仏にぴたりとくっついて、土方はそれに答えるようにの肩をしっかり抱いた。

「今は、もう少しこのままでいて」

 柳の葉の隙間から柔らかい月光が差し込んで、スポットライトのようにの顔をちらちらと照らす。川から上ってくる透きとおるような水の匂いとの匂いが交じり合って、今までに嗅いだことのない素晴らしくいい匂いがする。

 しばらく何をするでもなく抱き合っていると、ふいに、土方の手にかすかな震えが伝わってきた。どうやら、が笑っているらしい。

「どうした?」
「ふふ、近藤さんのこと考えてたの」

 土方はついむっとして、の顔を覗き込んだ。

「なんで今?」
「近藤さんって、お妙さんのために何かしてあげたりしたことあるのかしらって思って」
「俺が知るかよ。惚れた女の機嫌とるためならあれこれしてんじゃねぇの?」
「本当にそうなら、ストーカー呼ばわりはされないと思うんですけどね」
「つまり、何が言いてぇんだよ」
「私の想像ですけど、近藤さんは好きだの愛してるだの口ではいくらでも言うけど、お妙さんに贈り物をしたり、デートに誘ったり、何かご馳走したり、そういうこと何にもしてないんじゃないかなって」

 そう言われてみると確かに、土方にも思い当たることがあった。

 近藤は仕事の合間を縫っては志村家の屋根裏や床下に潜んでいるし、時には仕事に穴をあけてまでそうしていることもある。近藤の行動を全て把握しているわけではないが、あれだけの時間をストーキングに費やしているのだから、まっとうな口説き方をしている暇があるとは思えない。

 どう反応していいか分からず、土方はを腕に抱いたままそのつむじに顎を乗せた。の言うことは、土方も身につまされる話だった。

「惚れた弱みって言うでしょ。先に惚れた方が相手に尽くさなきゃだめなのよ」
「それ、近藤さんに教えてやれば?」
「言えませんよ、そんな立場じゃありませんし。土方さんから言ってあげてください」
「……俺が言ったって説得力ねぇだろ」
「どうして?」
「俺だって、近藤さんと似たようなもんだ」

 いや、それよりずっと悪いかもしれない。

 近藤の場合、やり方はよろしくないが、好きだ、愛しているときちんと言葉で伝えている。それに対して土方は、告白もせずに流れにまかせてと付き合いはじめて、かといって特別に大事にしてやれているかといえば決してそうとは言えない。

 今夜はたまたまふたりで食事ができたけれど、こんな幸運に恵まれるのは珍しいことだ。先にと約束していても急な任務が入ればそちらを優先せざるを得ないし、そのフォローをする間もなく次々に任務が舞い込んでくる。

 ――俺は、に何もしてやれていない。近藤さんが言ったとおりだ。俺は汚い。その上、ずるい。が怒らないでいてくれるのをいいことに、甘えている。こんな自分がよく愛想をつかされないでいられるものだ。

「土方さん?」

 土方はありったけの力を込めてを抱きしめた。は胸が潰れるような声でうめいたけれど、土方は力を緩めなかった。

「土方さん? あの、苦しいんですけど……」
「ごめんな」
「分かってるなら離してください」

 の懇願を無視して、土方はますます腕に力を込めた。こうでもしないと今にもに捨てられる、それくらい必死だった。

「土方さんってば」

 は意味が分からずただただ困惑した。

「ありがとな」
「え、何が?」
「やっぱり、俺はお前が好きだ」
「……どうしたんです? 酔いが回りました?」

 は本気で困っているようで、土方の狭い腕の中でなんとか首を巡らそうとする。土方はぐっとの頭を抱え込んで、その耳元でもう一度囁いた。

「好きだ」
「もう、飲みすぎですよ、土方さん」

 が笑い混じりに言う。照れくさいのか、本気にしていないのか、それとも、酒の力を借りないとこんなことも言えない土方に呆れているのだろうか。

 どんな理由だろうと笑って聞き流して欲しくなくて、土方は強引にの顎をすくい上げた。至近距離からの瞳を覗き込んで、好きだと、吐息だけで告げてから唇を重ねる。熱く、舌を絡める。ははじめ戸惑っていたけれど、土方が唇の角度を変えるたびにほだされて、少しずつ目元をとろけさせていった。

「近藤さんのまねしてるんですか?」

 土方はの唇の端からこぼれ落ちそうになっていた唾液を指で拭ってやりながら答えた。

「局長を見習ってんだよ」
「それでうまくいってるわけじゃないのに?」
「茶化さないでちゃんと聞けよ」
「だって、らしくないわ」

 は困った顔をして笑った。くすくすと体を震わせると、まるで犬か猫を腕に抱いた時にのように、心臓の鼓動が直に手のひらに伝わってくるようだった。

 土方は、悔しかった。そんなに笑わなくてもいいじゃないか。これまでに一度もこの言葉を口にしなかったことを後悔して、意を決して告げているというのに。酒のせいにして、冗談にして済ませて欲しくない。けれどこれ以上どうしていいのか分からず、土方は目一杯両腕に力を込めると、絞り出すように告げた。

「好きなんだ」

 は土方の腕に抱かれたまま、しばらく何も言わなかった。それはほんの数秒のことだったのかもしれない。けれど、土方にとっては永遠のように長かった。

「……何か言えよ」
「……はい」

 は唇を土方の胸に押し当てたまま、苦しそうに言う。少し腕の力を緩めてやると、は大きく肩で息をした。

 土方を見上げたその顔は、土方がこれまで一度も見たことのないような、満面の笑みだった。

「嬉しい。どういう風の吹き回しか知らないけど」
「惚れた弱みだのなんだのと言い出したのはお前だろ」
「自分のことだと思ったんですか?」
「そう言ってるように聞こえた」
「私は、私の話をしたんですよ」

 は土方の腰に両腕を回すと、土方の心臓の音を聞くように、胸板にぴたりと耳を押し当てる。

「大好きよ」

 の声は、土方の胸の奥に直接注ぎ込まれるように、不思議な感覚を持って響いた。体の芯から熱が生れるのを感じる。その熱が鍵となって、と自分の中の何かがかちりと音をたてて噛み合った。繋がった。

 ふたりのそばを前後不覚になるまで酔っぱらった浪人がひとり、鼻歌を歌いながら通り過ぎていく。が、柳の影で真選組の鬼副長と女がふたり睦み合っているとはまさか思わないらしい、ちっとも気づかずに行ってしまう。

 その後ろ姿が路地を曲がって見えなくなるのを確かめてから、土方は言った。

「なぁ、
「はい?」

 の顎を捕えて上を向かせる。柳の葉が風に揺れて、の瞳に月明かりが入り、黒い真珠のような瞳に光が入った。

 まさしく、は真珠だと思った。他の何にも変えられない、世界でたったひとつの宝石。

「やっぱり、今夜はまだ帰りたくない」



 気でも狂ったのかしら?

 好きだと、馬鹿のひとつ覚えのように言う土方を見て、がまずはじめに考えたことはそれだった。

 そもそも、土方は「好き」だの「愛している」だの、そんな浮ついた言葉を軽々しく口にする人ではない。言葉で直接好意を伝えられたことは、これまでほとんどなかった。それを寂しく思ったことがないと言えば嘘になるけれど、早い時期に割り切ったつもりだ。土方が不得意だと分かっていることを強要したりしたら、自分からわざわざ嫌われにいくようなものだから。

 今夜、土方に何があったのか、には分らない。話の流れから察すると近藤と何かあったようだけれど、深く問いただしてほしくなさそうな雰囲気がして、聞けなかった。

 何があったにせよその何かは、土方の唇をひどく柔らかく甘くしてしまったらしい。流星群の夜、流れ星が次から次へと空から滑り落ちるように、土方の唇から甘い言葉がとめどなく降ってくる。

 こんなことは今まで一度もなかったから、はどうしたらいいか分からなかった。素直に喜べばいいのかもしれない。 けれど、素直な喜びというものをどうやったら表現できるかとっさに考え込んでしまう。こういうものは、考えるまでもなく反射的に出て来なければだめなのだ。

 つい、冗談めかして笑ってしまい、土方の腕はますます強くを抱きしめる。好き、以外の言葉を全て忘れてしまったらしい土方の唇より、力強い腕の方がずっと饒舌だ。

 肩を抱く骨張った手、耳元をくすぐる吐息、厚い胸板の奥に感じる鼓動、たくましい体、その全てが、狂おしいほど強くを求めている。求められるまま全てを捧げ、からっぽになった体の中に静かに満ちていくもの。それは幸せだ。

 ――あなたがいれば、もう怖いものなんて何もない。










title by OTOGIUNION



20180903 (20200817加筆修正)