俺が鬼とあだ名されるようになったのはずいぶん昔のことだ。

暴漢に襲われた兄を助けるため、我を忘れて小刀を振ったらつい強盗を返り討ちにしてしまったのだ。剣術も習ったことのない子どもが、大の大人を相手に互角か、それ以上の腕前を発揮すれば、誰だって気味悪がるのも当然だ。その事件以来、俺のそばには誰も近寄らなくなった。

別に、寂しくなんかなかった。

自分は誰の力を借りなくともひとりで生きていける。それが誰よりも強くなるということだと思っていた。誰かに甘えたり、頼ったりするような、弱い人間にはなりたくなかった。

強くなるために、喧嘩ならいくらでも朝飯前にこなさなければと思っていた。

「鬼の子だ!」
「鬼の顔かなんか誰も見たくねぇんだよ! 消えろ!」
「鬼は退治しなけりゃならねぇ!」
「やっちまえ!」
「鬼め! 人間の世界から出て行け!」
「殺してやる!」
「死ね! 死ね!」

たまたま居合わせた村のガキどもがぎゃんぎゃん吠えてうるさかった。多勢に無勢とはいえ、腕試しにはいい機会だ。
これくらいのことで腰が引けていては、いつまでたっても強くはなれないと、思っていた。







川の真ん中で、魚が跳ねて水滴を散らす。太陽の光を弾いて真珠の粒のように輝いたそれは、一瞬の後に水面に落ちる。

穏やかな流れの川だ。砂利が堆積してできた小さな岸で、土方はざぶざぶと顔を洗っていた。

着物の袖で乱暴に顔を拭って見上げた先で、土方とそう年の変わらない青年達が倒れていた。十数人はいるだろうか、額に大きなたんこぶを作っている者、両手両足に擦り傷を負っている者、外傷はないが白目を向いて天を仰いでいる者、吐瀉物を撒き散らしている者、その全員、意識がない。

腹が減ったので魚でも取るかと、河原に降りていたのだが、とんだ邪魔が入ってしまった。

せっかく倒した連中が目を覚ましてしまうかもしれない、土方は昼飯を諦め、この場を離れようとしたが、妙な音が聞こえて足を止めた。

 音は、川の向う岸から聞こえてくる。向こう岸は土方が立つ側と比べると狭く、見上げるとそこは里山に続く急な斜面だ。今は春の初めだから、もしかすると、冬眠から目覚めた熊か猪がえさを求めて山を下りてきたのかもしれない。

 土方の中の、一匹狼の血が騒いだ。空腹の野生動物ほど危険なものはない。けれど、これも強くなるための鍛錬と思えば気合いが入る。

 腰の木刀を抜いて、体の正面に構える。右足を少し引いて、いつでも踏み込めるように足元を確かめる。さぁいつでも来い、と崖の上を睨み付ける土方の目の前に落下してきたのは、熊でも猪でもなかった。

「きゃあああああ!」

 落ち葉や小枝を体中にくっつけて崖から転がり落ちてきたのは、背負子を背負った人の子だった。

 土方は呆気に取られ、木刀を構えたままぱちくりと瞬きをする。

 まだ少女と言っていいほど若い女だった。髪を首の後ろでしばっていて、すね当てをまいた足に草鞋をつっかけている。背負子の中からは、ふきのとうやぜんまいがこぼれていた。

「いったぁ……」
「おい、大丈夫か?」

 土方は木刀を下ろして、川向うにも届くよう声をはり上げだ。女は声を掛けられてはじめてそこに土方がいることに気づいたらしい、はっと目を見開くと、とっさに着物の裾を直した。

「驚かせてすいません! 足を滑らせてしまって……!」

 女は顔をゆがめると、座り込んだまま足首を見下ろした。

「どうした?」
「えぇ、あの……」

 女の声はだんだんと小さくなって、最後の方は土方には聞き取れなかった。

 土方は後ろを振り返って、砂利の上で伸びている連中を見やる。まだ目を覚ます気配はないが、こんな大声を出していては時間の問題だ。

  土方は木刀を帯に差すと、草鞋のまま川に足を踏み入れた。

 対岸で座り込んでいた女は土方が川を渡ってくるのに気づいて体を強張らせたが、土方はそれに構わず女のそばに片膝をついた。見ると、右の足首が赤く腫れている。崖を転がり落ちた時にひねったらしい。

「立てねぇのか?」
「ううん、ちょっと無理かも……」

 女は足首を見下ろしながら、不安そうに答えた。

 土方は肩越しに振り返って、対岸の様子を確認する。遠目だが、倒れている中のひとりが小さく身じろぎをしたのが見えた。

もたもたしてはいられない。土方は女が背負っていた背負子を強引に奪って左肩にかけると、有無を言わさず、女を横抱きに抱えて持ち上げた。

「きゃぁ! え!? 何!?」
「でけぇ声出すな。ひとまずここを離れるぞ」
「えぇ!? なんで!?」

 土方は川沿いを上流に向かって走り出した。女はとっさに土方の首に腕を回してしがみつき、足首の痛みを堪えるためにぎゅっと目を閉じる。

土方はできる限りの速足で、すたこらと逃げた。





 どれくらいか走り続けたら、岸辺が終わった。川の水の色が濃くなり、水の流れも早くなる。先ほどまでいた場所よりも砂利の石が大きく、所々に大きな岩が転がっている。

 土方は川辺に手頃な岩を見つけてそこに女を下ろすと、その足元にひざまずいて怪我の具合をもう一度確認した。先ほどよりも腫れが大きくなっているようだ。草鞋を脱がしてやると、女は痛みに声を詰まらせた。

「痛むか?」
「うん」
「川の水で冷やすといい」

 すね当てを外してやると、むきたての卵のような白い素足が光の中に露になって、土方は不思議な罪悪感に襲われた。見てはいけないものを見てしまったような気がした。白い肌と赤く腫れた足首のコントラストがやけに痛々しくて、こんなに繊細で美しいものに、自分なんかが触れていいのだろうかと疑問が浮かぶが、今更手を引っ込めるわけにもいかない。壊れてしまわないようにそっと、女の足を川の中に沈めてやる。その拍子に、女が漏らした吐息が耳にかかって、そこに火が着いたように熱くなった。

 反射的に飛び上がった土方を見上げて、女は笑った。

「ありがとう」

崖を転がり落ちた時にくっついたらしい枯葉や小枝が、飾りのように髪や着物に引っかかっていて、笑顔が素朴でかわいらしかった。

「べ、別にこれくらいなんともねぇよっ」
「優しいのね」
「優しくなんかねぇ! ちょっと待ってろ!」

 叫ぶように言って、土方は逃げるように踵を返した。

何がなんだかわけがわからなくて頭の中がぐちゃぐちゃだった。気持ちを落ち着けるためにとにかく歩いて歩いて歩いた。このまま女を置いて村へ逃げ帰ってしまおうかとも思ったけれど、ひとりでは歩くこともできない女をこんな場所にひとり残していくなんて、そんな薄情なことはできない。

鬼の子と蔑まれても、本物の鬼のように無力な人間を傷つけて平気な顔をしていられるほど、土方は肝が座ってはいないのだった。

 気持ちが落ち着くのを待って、土方は女の元に戻った。

「あ、帰ってきた」

 さも意外そうに、女は言った。

「何だよ?」
「置いていかれたのかと思ったわ」

 土方はこっそり舌打ちをすると、今度はきちんと心の準備をしてから女の前にひざまずいた。白い脚が、冷たく透明な水の中でゆらゆら揺れている。

「まだ痛むか?」
「少しね。冷やしていると楽よ」
「家は近くなのか?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「山菜取りに来ていたんだけど、迷っちゃったのよ。朝から山に入ってたんだけど、どのくらい歩いたかな。もう分かんなくなっちゃった。あてずっぽうにうろうろしていたら、つい崖から足を踏み外しちゃってね」

女はまるで他人事のように、呑気な顔をして言う。

「そういう時は、もうちょっと困ったり焦ったりするもんなんじゃねぇの?」

 土方は呆れて、ため息交じりに言った。

「焦っても何も解決しないでしょ。それとも何? 私がここで泣き喚いたら問題が解決する?」
「そんなこと言ってねぇだろ」
「ならいいじゃない」

 女は首の後ろで結っていた髪をほどくと、頭を振って髪を空気にさらす。ちょうどよく風が吹いてきて、髪にくっついていた枯葉や小枝をさらっていった。
手櫛で髪を整えながら、女は土方を見下ろした。

「あなたは? こんな河原で何をしていたの?」
「別に、何でもねぇよ」
「人がたくさん倒れてたわね、あなたがやったの?」

 とっさに言い返せなかった土方は、ぎろりと女を睨み上げて固くこぶしを握った。

「だったらどうだって言うんだ?」

お前も、俺を鬼と呼んで逃げ出すか? こんな足では、ひとりでどこにも行けないくせに?

「腕が立つのね」
「あいつらが弱かっただけだろ」
「そんなひねくれたこと言わなくても。せっかく褒めたのに」
「誰も頼んでねぇ」
「人を褒めるのに頼まれる必要ないでしょ?」
「ごちゃごちゃうるせぇよ、ちょっと黙ってろ。足出せ」

女は言われた通りに口をつぐむと、足を上げて水滴の滴る赤く腫れたそれを土方の目の前に突き出した。土方は努めて動揺しないようにしながら、懐から手拭いを取り出して、端を噛んで裂いた。何度かそれを繰り返すと、手拭いは包帯のように長細くなる。その上に女の足を乗せ、足首の前で交差させて固定する。応急処置だが、手拭いを水で濡らしておけば熱も逃す。
手拭いを巻いた足をもう一度水の中に戻すと、土方は後ずさりをするように立ち上がった。

「これでいくらかましだろ。少し休んだら帰んな」
「ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「でも、助かったわ」

土方は女に背を向けた。女の目があまりに真っ直ぐで、見ていられなかった。

俺は、鬼と呼ばれる男だ。そんじょそこらの野侍に負けないくらいの腕は持っている。人を殺したことだってある。だから、何かの拍子にたがが外れて、何をしでかすか自分でも分からないのだ。

今だって、生娘の肌を間近に見ただけでこんなに動揺して、何がきっかけで理性がきかなくなるか分かったものではない。そんなのは、だめだ。喧嘩を売る方には非があるが、この女は色を売っているわけではないのだ。

「気難しい人ね」

ため息をつく気配がして振り向くと、女は草履を履き直し、山菜が山盛りになった背負子を背負って、腰掛けていた岩に手をついて立ち上がろうとしていた。片足に重心をかけて、包帯を巻いた足をそっと地面につける。一歩、二歩と歩いてみて、うんと小さく頷く。

「なんとかなりそう」
「そうか、良かったな」
「本当に、ありがとう。あなたがいなかったらあそこでひとりどうにもできなかったわ」
「だから、礼はいいって」
「だから、感謝は素直に受け取りなさいって」

 女が一歩足を踏み出した瞬間、踏みしめた石が音を立てて崩れた。体が傾く。思わず伸ばした腕は、女の腕に届いた。

「おい、気を付けろよ。足場悪いんだから」

 言った瞬間、女と目が合った。その瞳に自分の顔が映っているのが分かるほど近くで。

「ごめん」

 女の息が、顔にかかる。甘い匂いのする吐息、赤いやわらかそうな唇。目が離せなくなる。

やばい。
鬼が。

 土方は体ごと飛びのいた。外敵に襲われたザリガニが後ろにひょいと飛びのくように。ザリガニのように真っ赤になった土方は、女に背を向けて怒鳴るように言った。

「し、仕方ねぇから! 道まで送ってやる! そっから先は自分で何とかしろよ!?」
「あぁ、うん、分かった」

女はぽかんと目を丸くして呟いて、それ以上は何も言わなかった。





それから、ふたりで岸辺を離れて山道を抜け街道に出た。女はでこぼこの山道を歩くのにずいぶん苦労していて、土方が手を貸してやらなければまっすぐ歩くこともできなかった。

ふたりで四苦八苦しながら、ようやく街道に出たとき、行商の荷馬車と行き合ったのは幸運だった。ちょうど、女の村に帰る途中だというので、ついでに家まで送ってもらえることになったのだ。

荷台に腰を下ろした女は、最後にもう一度、ことさら丁寧に言った。

「本当に、ありがとう」

土方は目を合わせずに答えた。

「もう崖から落ちるなよ」
「えぇ、気を付ける。あなたもね」
「俺は落ちてねぇよ」
「そうじゃなくて。理由は知らないけれど、そんなに独りよがりな性格をしていると、いつか私と同じ目に合うわよ」
「どういう意味だよ?」
「ひとりぼっちで山で迷って、崖から落ちたりするのよ」

 訳が分からず、土方は首を傾げる。女はその瞬間、大人びた顔をして笑った。

「もしそんなことがあったら、私にとってのあなたみたいな人が、現れたらいいわね」

土方が答える前に荷馬車は動き出して、女は荷台に揺られながら大きく手を振る。土方は、荷馬車が西の空に沈む夕日に溶けて見えなくなるまで見送った。



あの女と再び会うことは、きっともう、二度とないだろう。そういえば名前も聞かなかった。今更惜しいような気持ちがしたけれど、もう遅い。

私にとってのあなたみたいな人。

あいつにとって、俺はどんな人間だったんだろう。誰もがそういうように、鬼のようだっただろうか、それとも、年頃の娘の扱いに慣れていない情けなくみっともない男だろうか。

土方は踵を返し、自分の村へ急いだ。日が暮れると、この辺りは野党が出る。一網打尽にしてやることは簡単だけれど、今夜はそんな気分ではなかった。

今夜は、あいつの言ったことについて、寝床でゆっくり考えてみることにしよう。











20180501