耳をつんざく大きな泣き声が屯所中に響き渡っている。

 その出どころはひとりの赤ん坊だった。顔を真っ赤にしてぼろぼろと涙をこぼし、その小さな体のどこからそんなに大きな声が出るのか不思議になるほどの大声を上げて泣いている。

「何の騒ぎですか?」

と、に問われ、土方は頭を抱えた。

 赤ん坊は、今日、真選組が検挙した浪士が潜伏していた酒屋の娘の子だった。娘は浪士の子を身ごもり、籍も入れずに育てていたらしい。娘は攘夷活動を援助していた罪で逮捕されたが、赤ん坊は母親から引き離されてしまったわけだ。

「施設に入れるにも、空きがなくてな。ひとまず連れ帰ったんだがこのざまだ」

 さっきから原田と山崎が代わるがわる抱いたり撫でたりして必死に赤ん坊をあやしているが、一向に泣き止む気配がない。鳴りやまないサイレンは人心を波立たせるものだ、土方はいらいらと言った。

「おい、いい加減になんとかしろよ。うるさくてしょうがねぇ」
「そんなこと言ったって無茶ですよ、副長」
「俺の顔を見て泣かない子どもがいると思いますか?」
「努力をしろよ」
「顔は変えられません!」
「まぁまぁ、落ち着いて」

 は苦笑いをしながら原田の手からひょいと赤ん坊を受け取ると、慣れた手つきで胸に抱く。高い声であやしながら小さな手を握ってやると、嘘のように赤ん坊は泣き止んだ。

「さすがさん、すごいですね!」

 原田と山崎が感心して、思わず拍手を送る。

「子どもの頃、よく面倒見てたからね。昔は弟妹を背負いながら寺子屋に通ってくる子がたくさんいたのよ」

 涙で濡れた赤ん坊の頬を指先で拭ってやりながら、が言う。

「いつまでこの子を預るんですか?」

 土方は呆気に取られならがも答えた。

「あぁ、明日には施設の方もなんとかなるらしいから、それまでな」
「それじゃ、私に面倒見させてください」
「そうしてもらうと助かります!」

 を拝むように両手を合わせ、山崎と原田が頭を下げる。この数分ですっかり参ってしまったらしいが、少し無責任にも思えて土方は眉をしかめた。

「んなこと言ったって、お前にも仕事があるだろうが。大丈夫なのか?」
「一日くらいなら何とかなりますよ」
「本当に?」
「はい」

 その自信たっぷりな笑顔を見たら、土方も何も言えなくなってしまった。



 赤ん坊を背中に縛り付け、はいつもどおりに働いた。

 眠る赤ん坊を背負ったまま配膳をし、皿を洗い、掃除機をかけ、赤ん坊がぐずれば体を揺らしてあやしてやる。買い物に行って粉ミルクや紙おむつを調達してきたかと思えば、ついでにでんでん太鼓まで自腹を切って買ってきた。たった一日だけ面倒を見てやればいいだけの赤ん坊にどうしてそこまでかまってやる気になるのか、土方には全く理解ができなかった。

 洗濯物を畳みながら、部屋の中を腹ばいで動き回っている赤ん坊を見つめるまなざしは穏やかで、何も知らずにこの光景を見たら、本当の親子だと言っても誰も疑わないだろう。

 屯所に戻ってきた近藤が、赤ん坊を持ち上げて高い高いをして遊んでやったり、沖田がでんでん太鼓を使ってあやしてやると、赤ん坊は満面の笑みを浮かべて笑い声を上げる。まるで本当の家族を見るようだった。

 土方は、できるだけ赤ん坊には近寄らないようにした。煙草の煙は子どもには毒だろう。赤ん坊を施設に預けるための書類をそろえなければならないし、他にも仕事は山のようにある。
 それに、疎外感を感じてもいた。

 は自分の仕事をしながらも赤ん坊にかかりきりで、土方の方を見むきもしない。いつもなら、仕事の合間に一言二言、言葉を交わす暇くらいはあるのに、今日はそれもない。そんなことで機嫌を損ねる自分も大概子どもっぽいと頭では分かっているけれど、胸がざわつくのはどうしようもなかった。

 その夜、の部屋から断続的に聞こえる赤ん坊の夜泣きの声は、早朝まで止まなかった。



 翌日。

 外回りとその他雑多な仕事片付けて早いうちに屯所に戻ってきた土方は、ある一室の前で足を止めた。

 赤ん坊とがふたり並んですやすやと眠っていた。

 部屋の片隅にはたたんだシーツやシャツが重ねてある。赤ん坊は畳の上に仰向けになって寝息を立てていて、腹の上には洗い立てのタオルがかけてある。はその上に手のひらを乗せたまま、座布団に頭を乗せて横向きで目を閉じていた。赤ん坊を寝かしつけながらそのまま一緒に眠ってしまったらしい。

 土方はそっと部屋に入ってふすまを閉めると、上着を脱いでの肩にかけてやった。よく眠っていた。昨夜は夜泣きをする赤ん坊をあやして、ほとんど眠れなかったのだろう。

 そばに腰を下ろして、土方は目を細めた。

 赤ん坊を守るように手を添えて眠るは、疲れのにじんだ顔をしていても目を疑うほどきれいだった。感動すら覚えて、ため息が漏れる。いつもが体を預けてくれるのに甘えて力任せに抱いたりしてしまっているけれど、今はその頬に触れることもためらわれた。どうしてこんな風に思うんだろう。障子越しに柔らかい日差しの光の加減のせいだろうか、それとも、隣で眠る赤ん坊のせいだろうか。

 の寝顔に見とれて、どのくらいの時間を過ごしただろうか。
 
 気が付けば、いつの間にか目を覚ましていた赤ん坊が、ぱっちりと目を見開いていた。下手くそなラッパのような意味のない音を喉で鳴らして、手足をばたつかせている。その小さな手がの顔面すれすれをかすった。

「おいおい、気を付けろよ。起きちまうだろ」

 土方はとっさに赤ん坊を抱き上げてから引き離した。せっかくよく眠っているのだ、少しでもゆっくり休ませてやりたかった。

 土方の膝の上に乗せられた赤ん坊は、案の定ぐずった。慣れない手つきで赤ん坊の背を支える手が居心地悪いらしい。どうしようかと土方があたふたしていると、いつもふところに入れているマヨネーズのボトルがぽろりと滑り落ちてきた。

 突然目の前に飛び出してきた赤いキャップと黄色のボトルに、赤ん坊は目を輝かせた。もしかすると、生まれて初めてマヨネーズに出会ったのかもしれない。目に浮かんだ涙はあっという間に引っ込んで、ボトルに抱きついて遊びはじめた。

 赤ん坊がボトルを甘噛みするから、赤いキャップやボトルが涎まみれになってしまいそうだったけれど、泣かずに大人しくしていてくれるならそれにこしたことはない。土方はほっとした。

 はまだ、すこやかな寝息を立てて眠っている。

 なんとも言えずに穏やかな気持ちになって、土方はひっそりと微笑んだ。



 嗅ぎなれた煙草の匂いを鼻先に感じて、は目を覚ました。

 赤ん坊を寝かしつけて、そのまま一緒に眠ってしまったらしい。昨夜は夜泣きがひどくて一睡もできなかった。世の中のお母さんはみんなこれっぽっちしか眠らずに毎日毎日あんなに一生懸命働いているのかと思うと、本当に信じられなかった。たった一日赤ん坊と一緒にいただけで、はすっかりくたびれてしまっていた。

 赤ん坊はかわいいし、柔らかくていい匂いはするし、愛や幸せが人の形をとって目の前に現れたように思えたけれど、それは最初だけで、一日中そばにつきっきりで面倒を見てあげなければならないとなると、全く休む暇もない目の回るほどの忙しさだった。言いたくはないけれど、疲れた。たった一日でここまでとは、自分でもびっくりだった。
 
 それにしても、煙草の匂い?
 
 違和感を感じて、は飛び起きた。目に飛び込んできたのは、土方の膝につかまり立ちして機嫌よく笑っている赤ん坊だった。

「おぉ、起きたか」

と、煙草を吹かしながら土方が言う。

「……赤ちゃんの前で煙草は止めてください」

 寝起きのかすれる声で言うに、土方は何食わぬ顔をして言った。

「少しくらいいだろ」
「でも」
「吸ってると機嫌いいんだよ」

 土方は深く煙を吸うと、口を尖らせて舌を鳴らした。ドーナツの形をした煙が宙に浮かんで、吐息に乗って消えていく。赤ん坊が手を伸ばしてそれを追いかける。まだひとりでは歩けないからすぐに尻もちをついてしまうけれど、きゃっきゃっと楽しそうに笑っていた。

 赤ん坊が笑っているのを見ると、何も文句は言えなくなってしまう。

 の肩から土方の隊服が滑り落ちた。まだ土方の体温が残っているのか、触れるとほんのりと温かい。名残惜しかったけれど、軽くたたんで置いておく。

 赤ん坊のそばにマヨネーズのボトルが転がっていたので拾い上げたら、涎でべとべとに濡れていた。胸元にしまっておいたハンカチで拭う。それでも、なんだか赤ちゃんの甘い唾液の匂いが残ってしまったような気がしておかしかった。

「あやしててくださったんですね、ありがとうございまず」
「お前もご苦労さん。今日の夕方には施設で引き取ってもらえることになったぞ」
「そうですか。良かった」
「疲れただろ」
「えぇ、少し」
「悪かったな、任せちまって」
「いいえ、いい経験でした。楽しかったですよ」

 赤ん坊が小さな手で土方の人差し指を握る。土方は穏やかな目をして、赤ん坊がするのに任せて指を預けていた。土方がこんな顔をするのを見るのは初めてで、は驚きを隠せない。

 愛情深い、静かで優しい目だった。鬼の副長と恐れられ、仕事に追われていつも目をつり上げている土方にこんな顔をさせてしまうのだから、赤ん坊はすごい。

 は嬉しくなって、そっと土方の方に体を寄せた。

「子ども、好きなんですね」
「別にそんなんじゃねぇよ」
「そう見えますよ」
「子ども好きなのはお前の方だろ」
「そう見えますか?」
「まぁな、違うのか?」
「かわいいとは思いますけど、育てるとなると本当に大変でしょうね。一日面倒を見ただけでくたくたですもの」
「女ってそういうのちゃんとできるようにできてるもんなんじゃねぇの?」
「どうなんでしょう、まだ経験がないので分かりません」

 ふぅん、と曖昧に相槌を打って、土方は短くなった煙草の火を消した。あいた両手で、赤ん坊を高く抱き上げる。高い所から土方を見下ろして、赤ん坊は楽しそうに手足をばたつかせた。まるで空を飛んでいるようだった。

「こいつはきっと、寂しい思いをするんだろうな」

 赤ん坊を見上げながら、土方は呟いた。

「急にどうしたんですか?」
「こいつは親なしの人生に放り込まれたんだ。こんな小さいうちに」

 土方はどこか遠いところを見るような目で、たんたんと言う。はじっとその言葉に耳を傾けた。親なしの人生を歩んだのは、土方もも同じだった。土方の言おうとしていることはなんとなく分かるような気がした。

「かわいそうにな。他の人間がしなくてもいい苦労を、こいつはこれからたくさんしなきゃならねぇんだ。しかも、親は犯罪者だもんな、これからたくさん、悩むんだろうな」
「でも、施設に入って、幸せな思いをたくさんするかもしれませんよ。もしかしたら里親になってくれる人も現れるかもしれないし、素晴らしい幸せな人生を歩むかもしれません」
「そういう風に育ててくれる親に拾ってもらえたらいいけどな」
「きっとそうなりますよ」
「なんで分かるんだよ?」
「なんとなくですけど、悲観的なことばかり想像するよりはいいと思いませんか?」

 赤ん坊を膝の上に抱き直して、土方がを見る。
 は微笑みを浮かべて頷いた。

「大丈夫ですよ、きっと」

 赤ん坊がそれ答えるように、高い声を上げて笑った。は嬉しくなって、赤ん坊の頬を慈しみを込めて撫でた。土方の膝の上はずいぶん居心地がいいらしくずっと上機嫌だ。昨夜、一晩中泣き続けていたのが嘘のようだった。

 赤ん坊は、愛や幸せの塊だと思う。日々、何かと忙しく心も体も疲弊させている大人の前にひょいと現れて、純粋で、目には見えないきらきらしたものを振りまいてくれる。

 赤ん坊を挟んで、土方と一緒に過ごすこの時間が幸せだった。こんなに穏やかな時間を過ごすのは久しぶりだ。手も繋いでいないし、抱き合ったり口づけをしたりしなくても、こんなにも満たされた気持ちになれるのが不思議で、嬉しかった。


「はい」
「お前、子ども欲しいとか思うの?」
「……はい?」

 は真ん丸に目を見開いた。
 土方は変わらぬ顔して、膝の上の赤ん坊をあやしている。

「何ですか、急に?」
「いや、そういやそんな話したことねぇなと思って」

 欲しいと言ったら、どうする気なんだろうか。

 は答えに詰まって、じっと土方の瞳を見つめ返した。










20180203