屯所は静かだった。

 市中見回り当番の隊士達は出払っていて、宿直の隊士達も今は稽古の時間だ。道場の方から威勢のいい掛け声が聞こえてくるが声は遠い。

 土方は静かな廊下をひとり歩いていた。隊服をしっかりと着込んでいて、腰に刺した刀が歩くたびに小さな音を立てる。鬼の副長と恐れられる鋭い眼光に、トレードマークの咥え煙草。

 が、その足音はどこか間延びしていて、背中が斜めに曲がっている。よく見れば隊服も皺がついてくたびれているし、瞼は眠そうに伏せられていて、白目が充血している。

 昨夜、松平の命令でスナックすまいるに引っ張り込まれてしまったのは、土方にとって大きな誤算だった。いつもならなんだかんだと理由をつけてさっさと退散してくるところだが、今回はお忍びで城下に遊びにやってきた将軍・松平茂々公の護衛を担わなければならなかったのでそういうわけにはいかなかったのだ。しかも昨夜に限って、なぜか店に万事屋の三人組が雁首をそろえていて、それでは面倒なことが起こらないわけがない。

 結局、飲むわ歌うわ騒ぐわ脱ぐわ、とんでもない騒ぎになってしまい、やっと解放されたと思ったら翌日の太陽はすっかり高いところへ昇ってしまっていた。

 早いところ、部屋に戻ってひと眠りしようと、くたびれた体を引きずって歩いていたら、目の端にの姿が映り込んできて、土方は足を止めた。

 は廊下の突き当たりにある納戸の中にいて、高いところに向かってぐんと手を伸ばしている。ところが、目当てのものになかなか手が届かないらしい。

 土方は苦笑した。小さな体で精一杯背伸びをするさまはあどけない子どものようでかわいらしいが、踏台を使えば簡単に済むだろうに。

 水を吸った土嚢のように重かった体があっという間に乾いて軽やかになる。風が吹けばさらさらと砂が宙を舞いそうだった。

「これか?」

 土方はの頭越しに手を伸ばして、目当てのものらしい段ボールを引っ張ってやった。

「わっ!」

 は驚いてびくりと肩を跳ね上げると、振り返って目を丸くした。土方の腕の中にすっぽり収まる場所にがいて、それだけで土方の体の奥の方が温かくなった。

「土方さん、戻られてたんですね」
「おぉ」

 足を踏み入れてみると、納戸は思いのほか狭い。作り付けの棚は満杯で、反対の壁には長持が二つ三つと重ねてある。ふたりが並んで立つのがやっとで、窓もないから空気がこもって埃っぽい。

 土方は舞い上がった埃を手を振って払う。

「昨夜は遅かったんですね。午前様ですか?」
「午前っていえばそうだな、たった今帰ってきたとこだ」
「それはお疲れさまです」
「あぁ、疲れた。くたくただ」

 土方がわざとらしく言うと、は軽やかに笑ってくれた。

「それじゃ、ゆっくり休んでください。箱、ありがとうございます」
「これだけでいいのか?」
「えぇ」

 は箱の前に膝をつくと、中から紙に包まれたものを取り出した。紙を解くと、シンプルな形のガラスのコップが現れる。

「なんだ、鉄之助の奴、また割ったのか?」

 土方はげんなりして言った。

 土方付きの小姓をしている佐々木鉄之助は、剣術の稽古をはじめて日が浅く、まだ真剣を握るには実力が足りないので隊の任務にはついておらず、屯所の雑務をしている。台所で洗い物をするのもその仕事のひとつなのだが、不器用なところがあってしょっちゅう皿やコップを割ってしまうのだ。隊士の間ではすっかりお馴染みの話題になっていた。

「いえ、まぁ、そうですねぇ、はい」

 は歯切れの悪い返事をしながら、二つ三つとコップを取り出していく。どうやら今回は大量に割ったらしい。

「あいつはいつまでたっても学習しねぇな」
「怒らないであげてくださいね。鉄くんは一生懸命やってくれてますよ」
「やる気だけありゃいいってもんでもねぇだろ」

 土方はコップをつまみ上げてため息を吐いた。コップひとつとはいえ、ただではないのだ。真選組の財政は潤沢ではない。後でしっかり釘を刺しておかなければならない。

 ふと、土方が目を上げると、が上目遣いに土方を見上げていた。存外近い場所にその瞳があって、その黒目に土方の顔が映っているのが分かる。

 土方は無意識にの頬に手を伸ばした。指の腹での頬を撫でてみる。化粧っ気のない、冷たく滑らかな手触りがする。土方は後ろ手に納戸の扉を閉めて、の唇に自分のそれを押し当てた。窓がないので、狭い納戸は天井からぶら下がってる豆電球の橙色だけの世界になる。

 ところが、の手が土方の胸元を押し返してきて、土方は驚いて身を引いた。

「何ですか?」

 やけに冷めた目をして、は言う。その目に不穏な気配を感じて、土方は思わず頬を強張らせた。

「お疲れなんでしょう? こんなことしてないで、お部屋でゆっくり休んだらいかがです?」
「なんだよ、その冷てぇ言い方?」
「休んでくださいって言ってるだけです」

 は頬を撫でる土方の手をそっと払うと、そっぽを向いてコップの包みを解く作業に戻ってしまった。

 土方は取り残されたような気分になって、ぽかんと口を開けて固まった。頭がフリーズして、何も考えられなくなる。は何事もなかったような顔をして床にコップを並べている。目の前にいるのに、どんなに手を伸ばしても届かない場所まで離れてしまったような気がして、土方はの頬に触れていた手を握ったり開いたりした。

 一体、何を間違ったのだろう。

 くたくたにくたびれて屯所に帰ってきたら、ちょうどよくの顔を見ることができて、一瞬で疲労感が吹き飛んだかと思った。他愛もない話に笑ってくれて嬉しかったのに、はそうではなかったのだろうか。

 なんだか堪らなくなって、土方はの肩を力任せに掴んだ。

「いたっ! なんですか!?」

 抗うの声を無視して、土方はを抱きすくめた。抵抗する気配を感じたので、正座をしたの膝の上に跨って身動きを封じてしまう。くたびれた体では、力加減が上手くいかない。体をのけ反らせてどうにか逃れようとするの後頭部を掴んで無理矢理、唇を吸う。固く引き結ばれた唇はどこまでも頑固だったけれど、舌先でしつこく柔らかなふくらみをなぞっていたら、やがて緩んだ。角度を変えて深く口づける。熱い唾液が混ざる。土方が手を離したら間違いなく後ろに倒れ込んで後頭部を打ち付けてしまう、危機的で、完全に自由を奪われた体制にも関わらず、の手は土方の胸を必死に、けれど力が入らないのか弱々しく押し返している。

 の息が続かなくなったのを見計らってようやく口を離した土方は、溺れる人のように荒い息を吐くを見下ろして、優越感に片方の口端を持ち上げた。

「いい顔」

 は頬を赤くして土方を睨んだ。

「やめて」
「なんで」
「こんな時間から何やってるんですか」
「俺、今日は休みだし」
「私は仕事があるんです」
「ちょっとだけ」
「疲れてるんじゃなかったんですか?」
「慰めてくれよ」
「えぇ?」

 土方はを深く抱きしめて、その首筋に鼻先をうずめた。朝の清潔な空気に似た、柔らかな匂いがして胸のすく思いがした。の肌からは、いつも新鮮で清潔ないい匂いがする。香水をつけているわけでもないのに。鼻からそれを吸って、吐く。そうやって深呼吸を繰り返していたら、の手が土方の背中をぽんぽんと叩いた。

「ねぇ、土方さん」
「ん?」
「ちょっと、離して」

 直感的に、嫌だという黄色信号が頭に浮かんで、土方は両腕に力を込める。は腕の中で苦しそうに呻いたが、土方はどうしても離したくなかった。こんなにいい匂いがするのに、どうして自分から手を離さなければならないのだろう。大好きなおもちゃを手放さない子どものようにそう思って、土方は意固地に腕をほどかない。

 ところが、に責めるように背中を何度も叩かれ、隊服の上から肌を摘ままれ、さすがにそれが痛かった。

「なんだよ?」

 腕の力を緩めて見下ろすと、は責めるような目をして土方を睨み上げていた。

「……昨日、女の人といたでしょう?」
「はぁ?」
「分かるわ。匂いがするもの」

 の瞳にみるみる涙が浮かび上がってくる。

 土方は狼狽して、慌ててを胸元に抱き込んだが、は嫌そうに身を捩った。

「離して。くさい」
「しょーがねぇだろうが。昨日から風呂入ってねぇんだから」
「そうじゃなくて。女の人の匂いがするの」
「気のせいじゃねぇの?」
「肩におしろいが付いてるわよ。気づいてないの?」

 そこまで言われて、ようやく土方は合点がいった。昨夜、スナックすまいるでやたらと土方に絡んでくる女がいて、いくら拒否しても腕に絡みついてくるわ、肩にもたれかかってくるわ、鬱陶しいことこの上なかったのだ。その女が頬をこすりつけていた肩口に、おしろいの白い粉が残っているのだ。

「これは、松平のとっつぁんに付き合わされたんだよ」
「へぇ」
「しかも将軍様がお忍びで来てて、俺だけ抜けてくるわけにいかねぇだろ」
「そうだったんですか?」
「そうだよ。そんな怒るほどのことじゃねぇだろ」
「私だって怒りたくて怒ってるんじゃありません」
「だったら……」
「でも、腹が立つんだから仕方ないじゃないですか」
「泣くなよ、こんなことで……」

 土方はただただ困惑した。

 何もやましいことはしていないのに、どうして罪悪感にさいなまれなければならないのだ。の怒りは理不尽なものに思える。けれど、謝って許しを請わなければ収まりがつかないような気もする。

 土方はの背を優しく叩いて体を離すと、おしろいの付いた上着を脱いで長持の上に放り投げた。

「悪かったよ。けど、別に何にもなかったって」

 は鼻の頭を真っ赤にして土方を睨んだ。

「本当に?」
「本当だよ」

 はどうやら信じていないらしく、鼻をぐすぐすとすすりながら唇を尖らせて俯いた。

 土方がもう一度を抱きしめると、は抵抗する気も失せたのか、黙って土方の腕の中に納まった。

「俺だって嫌だったんだぜ? こんなくたくたになるまでとっつぁんの趣味に付き合わされてよ」
「それは分かってるけど、面白くないんだから仕方ないじゃない」

 こんなに必死に言い訳をしているのにちっとも手ごたえがなくて、土方はこれ以上どうしたらいいのか分からなくなってしまう。

 がこんなにはっきりと不満を口にするのは珍しい。土方の肩についたおしろいを見ただけで涙を浮かべるほど腹を立てるなんて、普段のからは想像もできないことだ。

 土方は込み上げてくる嬉しさに、体の奥が熱くなるのを感じて、からは見えないところで微笑した。つまるところ、は妬いてくれているのだ。ふてくされたようなものの言い方がかわいくて、涙を浮かべるほど腹を立ててくれるのが嬉しかった。

「わっ! ちょっと!」

 土方はを長持の上に広げた隊服の上に座らせると、有無を言わさずキスをする。舌を使いながらの足を撫でる。細く骨ばっているが、着物の下の素肌は白くきめ細やかでとても柔らかいことを土方の手は知っている。着物の割れ目に手を入れた時、はようやく土方が何を考えているか察してぎょっとした。

「ちょっと! 何してるの!?」

 土方はいたずらっぽく微笑んで見せた。

「何って、ナニだろ」
「こんなところで!?」
「せっかくふたりっきりなのに」

 逃れようとするを、土方は帯を掴んで引き留めた。

「信じられない、こんな、朝から」
「俺寝てねぇんだから関係ねぇよ」
「ばか!」

 着物の下に手を滑らせる、その滑らかな素肌を手のひら全体を使って堪能しながら、の首に頬ずりをしていい匂いを堪能する。くすぐったいのか、は息を詰めて膝頭を固くくっつけていたが、その間に土方が自分の体をねじ込ませようとすると手を突っ張って首を横に振った。

「やだっ、ねぇ、やっぱり止めて……!」
「なんで?」
「だってそんなつもりなかったから準備してない……」
「なんだよ? 準備って? そんなのいる?」
「いろいろあるの、ねぇ、いや、いや、止めて、お願い」

 は下っ腹に力を入れて頑なに膝頭をくっつけていたので、土方は体を屈めてその膝に口づけた。それをしながら、腹に力を入れすぎて少し持ち上がった太腿の裏に手を入れて、くすぐるように指を滑らせてみる。の体はびくりと震えて、それを何度か繰り返していたら膝の力が緩んでくる。土方はその隙を逃さず、足を開いて胴体をねじ込ませた。

「やだ! ねぇ、もうちょっと、ひじかたさんってばっ……!」

 の文句を吸い取るように、土方は唇を押しつけての声を奪う。帯越しにの腰を抱きしめて、の腰と自分のそれを密着させる。くたびれた体に、の体温がじんわりと優しく染みた。直接肌に触れたくて、手を繋いで指を絡める。の手は少し迷った後、土方の手をしっかりと握り返した。

「……はぁっ、ひじかたさん……」

 が息を乱しながら名前を呼ぶ。土方の腰を挟んだ両足が誘うようにベストの生地を擦って、土方はそれを指の腹を使って丸く撫でる。

「ん?」
「本当にするの? こんなところで?」
「俺はしたいんだけど」
「……やめて」
「お前が本当に嫌ならやめるけど、本気で言ってる?」

 土方はそう言って、繋いだ手を離してみた。行き場を失ったの手は土方の胸を押したが、ちっとも力は入っておらず、土方の体はびくりともしない。結局それは土方の肩の上に落ち着いて、は恨みがましい目をして土方を睨んだ。

「……ずるいんだから」

 土方はの頬に手を添えて笑う。

「ごめんな」

 詫びれもせずにそう言って、土方は深くを抱きしめた。






20170724