白い月がくらげのように西の空に浮かぶ明け方。
誰よりも早く起き出した
は、袖をたすき掛けにしながらぱたぱたと縁側を急いでいた。
昨夜、大雨が降ったせいで屯所中の雨戸は締め切ってある。日の光の差し込まない屯所は薄暗く、このままでは誰も朝が来たことには気付かず布団に体を縫い付けられたままになってしまうだろう。ここに住んでいる人達はみんなそんな風なのだ。夜が開ける前に新鮮な朝の光を部屋の中に取り込まなければならない。
屯所の一番奥まった場所にある部屋の前で、
はぎょっとして足を止めた。隊服を着たままの隊士がひとり、まるで辻斬りにでも遭ったようにうつ伏せに倒れていた。いったい何事だろう、慌ててそばに駆け寄って肩を叩く。
「あの、大丈夫ですか?」
体がうつ伏せになっている上に雨戸を締め切った縁側は薄暗くて顔は見えないが、体から立ち昇る煙草の匂いで分かる。それに、ここはこの人の私室の目の前だった。疲れ切って部屋にたどり着く寸前に力尽きてしまったのだろう。
は強めに肩を叩いて、その耳元で声を張った。
「土方さん。こんなところで寝ていたら風邪を引きますよ」
土方はううんと呻き声を上げたものの、起きる気配がまるでない。こんな泥のように疲れ果てるまで何をしたのだろう。
は土方の隣に膝をついたままため息をつく。この人を部屋の中に入れて布団に寝かせてあげるには、どうしたら一番効率がいいかしら。
少し考えてみたが、妙案は浮かばなかったので一番簡単で一番難しい方法を取ることにした。
まず、部屋の真ん中に布団を延べて上掛けを剥ぐ。縁側に戻って土方の腰から刀を外し、雨に濡れたままの鞘の水滴を拭ってから床の間に収める。もう一度土方に声を掛けてみたがやはりうんともすんとも反応がないので、
は覚悟を決めて土方の脇の下に手を入れて体を引きずり、どうにか布団のそばまで引っ張った。ここまで荒っぽいことをしたらさすがに気がつくかと思ったのだが、やっぱり土方は目を覚まさない。
土方の重い体を引きずって息が上がってしまった
は膝をついて息を整えながら、土方の寝顔を恨めしく見やって、胸を痛めた。もしかすると、土方は眠っているのではなく気を失っているのかもしれない。あの大雨の中何をしていたのかは分からないし、聞いてもきっと答えてはくれないだろうけれど、ここまでぼろぼろになるほど無茶なことはどうかしないでほしい。
は湿った土方の前髪をそっとかき上げ、頬に触れてみた。雨に濡れたせいか、その肌は驚くほど冷たい。
「土方さん」
呼んでも、やっぱり土方は起きない。
薄暗い部屋の中、ちっとも目を覚まさない土方の油断しきった顔。もしも今誰かに寝込みを襲われたら、簡単に寝首をかかれてしまうだろう。そう思ったら、後ろめたいような気持ちが背中の方から這い上がってきて、
はとても悪いことをしているような気分になった。土方はプライドが高く、弱いところを人に見られることが嫌いだ。体力も気力も底をつき、みっとみなく縁側で四肢を投げ出して倒れてるところなんか、本当は誰にも見られたくなかっただろう。
「……見つけちゃって、ごめんなさいね」
はひそやかに微笑んで、土方の頬をつついた。
雨に濡れた服のまま布団に運ぶわけにもいかなかったので、
はうつ伏せのままの土方から上着を剥ぎ取った。袖から腕を抜くのに苦労したがどうにかなった。夜の匂いが部屋に立ち昇る。上着の下に隠れていた土方の体温が湯気のように見える気がする。しわくちゃになったスカーフを解くと、首の裏側に当たっていた部分が黄ばんでいた。ついそれを鼻先にかざしてしまって、その媚薬のような匂いに体の力が抜けそうになるがなんとか踏ん張った。
土方の体を反転させて上向かせ、ベストのボタンをひとつずつ外す。体にぴったりと沿うデザインのベストで、ボタンは小さく頑丈で硬いので少し手間取る。呼吸のたびに上下する胸の奥で脈打つ心臓の音が聞こえそうで、土方はいつ目を覚ますだろうと考えるとはらはらした。悪いことをしているわけではないのに、土方が目を覚ましてしまった時にどう言い訳をしたらいいか、必死で考えている自分がおかしい。
ベストのボタンと一緒にシャツのボタンまで外してしまったところで、
ははっとして土方の様子を見た。大丈夫、まだ目は覚まさない。時間もまだまだ早いし、雨戸は閉め切ったまま、一日のはじまりの朝日はまだこの部屋には入ってこない。
は土方の体を布団の上に転がそうと腰を浮かせたが、ふと気が付いた。雨に濡れたズボンの裾、泥が跳ねて体の中で一番ひどく汚れていた。仕方なく、
はベルトに手を掛けた。さっさと済ませてしまわなければ土方が起きてしまう。
ベルトの金具が擦れる音を聞いたのか、
の気配を感じ取ったのか、それとも朝一番に鳴いたすずめの声に呼ばれたか。土方が重そうな瞼を持ち上げたのはそんな時だった。
「……何やってんだ? お前」
かすれた声でもごもごと呟いた土方に、
は飛び上がって驚いて、なぜか金具だけ外したベルトを握りしめたまま固まってしまった。
土方は窮屈そうに身を捩らせ、ごしごしと目を擦って
を睨み上げる。
は蛇に睨まれた蛙のように動けない。寝ぼけ眼の鋭い眼差しは、得体の知れない罪悪感にまみれた
の心臓を射抜くのに十分な力を持っていた。
「……あ、お目覚め、ですか」
「あぁ」
土方は窮屈そうに上半身を起こすと、ぼんやりと
の手元を見やり、ボタンの外れたベストとシャツを見下ろし、上掛けを剥いである布団を見た。部屋はまだ薄暗く、夜の気配が濃厚に満ちていた。
「あ、あの土方さん……」
土方は後手に手をつき、言い淀む
の赤い顔を興味深そうに見やった。
「どうした?」
「いえ、あの、これはですね……」
「うん?」
まるでとりもちでくっついてしまったようにベルトから手を離せなくなってしまった
は、酒に酔ったように首まで赤くする。土方は
のその手を取ってベルトから外してやると、そのままその手を下の方にずらした。
「今、何時だ?」
そして
のうなじを誘うように撫でると、肌蹴た胸元にその体を引き寄せた。
「……明け方です。でも……」
は汗と皮脂の匂いが強く香る土方の首筋に鼻先を押し付け、そのまま土方の体にもたれかかった。土方はそれを無条件に抱き止めて背中から柔らかな布団に倒れこんだ。
「……まだ、雨戸は開けてません」
夜の気配は、朝の日の光を浴びるまでは消滅しないのだ。
20170306