は随分前に水商売から足を洗ってから、ずっと酒は飲んでなかった。なんとなくそうしようと決めて、なんとなくずっとそうしてきている。もともと仕事のために必要にかられて飲んでいたものだったから、あえて禁じることにも抵抗はなかった。
けれど
も大人だったから、どうしてもやりきれず、酒に逃げてしまいたいと思うことも稀にある。
「あんた、そんなに飲んで大丈夫かい?」
お登勢が労わりを込めて言う声に、
は何杯目になるか分からないグラスをカウンターテーブルに叩きつけて、大きな音を立てた。少なからずそれに驚いたお登勢は、仕方がなさそうに溜息を一つ落としてから、新しいグラスにウィスキーを注いでやる。
は片手で頬杖を付いて、視線をじっと斜め下に落としている。お登勢の声が聞こえているのかどうかも分からないような、深く物思いに沈んでいるような顔をしていた。
仕事帰りのサラリーマンで騒がしい店内だ。
の重苦しい雰囲気は、その空気になじめていない。だからお登勢は、
を一人にしておく気にはなれなかった。
「一体どうしたんだい? あんたらしくもない」
「……私にだって、たまぁには、こういう日もありますよ」
「こういう日って、どういう日だい?」
はグラスの中の氷を一度鳴らしてから、一口舐めるようにウィスキーを飲む。その眼が、まばたきをした途端、どろりと潤んだ。
「……特に、何があったというわけでもないんですけど、なんだか、こう、……いつも聞き流せていた事が、何故か今日に限って癪に障ってしまって……」
「生理前かい?」
「生理前です。けど、いつもはこんなに重くなくて……。ちょっと、やるせない気分で……」
「そうかい。それじゃぁ、飲みたくなっても仕方がないかもね」
「そうじゃないんです。そうじゃなくて……」
は言葉を詰まらせて一度深く俯くと、両手で顔を覆ってこの上なく深く淀んだ溜息を落とした。いっそ毒ガスでも吐き出しているんじゃないかと疑ってしまいそうな溜息で、お登勢は心持ち、半歩ほど後ずさった。
「あんた、何なんだい、一体?」
「……すいません。人に話すのも、何だか、もう、申し訳ないというか……、いつもより重いからってそれ、態度に出して屯所出てきたっていうのがもう……」
「もしかして、仕事ほっぽりだしてきたってのかい?」
「……私がいなくてもパートでシフトは廻るんですけど……。まぁ、そんなところです……」
はこれでもかといわんばかりに、もう一度深く深くため息をついた。相当酔いが廻ってしまっているらしく、いつもの冷静で落ち着いた
はなりを潜めて、すっかり卑屈になってしまっている。
お登勢にはもう手に負えそうになかった。仕方がないので、テーブル席の客達の相手をしていたたまに目配せをして、視線だけで合図を送る。たまは機械的な動作で頷くと、客に二言三言話をしてから席を立って、何食わぬ顔で店を出て行った。
それからしばらくして、天井から何か大きな物音がした。薄いベニヤ板で造られた天井が、みしみしと余韻のように鳴る。
が何事だ、と言いたげな様子で顔を上げたけれど、お登勢は深く煙草を吸うばかりで何も答えなかった。
は結局一人で歩くこともままならないほど酔っ払ってしまって、たまに叩き起こされた銀時が
を背負って屯所まで送ることになった。
「おーい、
ー、しっかりしろよー。ったく、お前らしくもねぇな」
眠そうに間延びした声で言う銀時に、
はうんうん唸りながら相槌とも言えない相槌を返す。体中の力が抜けきっていて、しかも酒も浴びるように飲んでいたから、いくら力の強い銀時にも
は重かった。だんだんと猫背になっていく銀時の背中で、
は四肢を投げ出して、唸り続けている。
「……銀さぁん、あんまり揺らさないで。気持ち悪いー……」
「ちょっとくらい我慢しろ。ていうかお前、そこで吐いたら承知しねぇからな」
「……いくらなんでもそこまで飲んでないわよ」
「どうだか。久しぶりだったんだろ? あんま無茶な飲み方するんじゃねぇよ」
銀時がそう言うと
はふいに黙り込んで、銀時の首に回した腕に力を込めてそのうなじに顔を押し付けた。アルコールが混ざった
の息遣いがくすぐったくて、銀時は振り返るように視線を動かす。
は銀時の銀色の髪に頬をくすぐられながら、その心地良さにじっと眼を閉じていた。
「どうした?」
銀時が問いかける。
はしばらく黙ったまま答えなかった。眠ってしまったのだろうか、と銀時は考える。けれど、首に感じる
腕の力は眠りに落ちてしまった人のそれではない。だから、
の息遣いに耳を傾け続けた。
は何も話さないかもしれない。けれどもしかしたら、話してくれるかもしれない。
「……銀さん」
「おう。どうした?」
「……なんか、疲れた」
「てめぇ、人に背負われておいてよくそんなこと言えたな」
「……ごめん、そういうんじゃなくて、うん、言い方悪かった、ごめん……」
「何が言いてぇんだよ。はっきりしろ、酔っ払い」
銀時はわざと乱暴に
を背負い直して、大きく体を揺らされた
は「うええええ」と吐きそうな声で唸った。仕返しと言わんばかりに銀時の後頭部に頭突きする。それにすら力はなかったので、銀時は首を仰け反らせて、反対に
の頭を押し返した。
「……なぁにすんのー……」
「これくらい我慢しろ」
「……信じらんない……」
結局それっきり、
は何もしゃべらなかった。
に何があったのか、何に疲れていたのか、銀時には結局何も分からなかった。
静かな夜道に、銀時の重い足音だけが響いた。それがまるで永遠みたいに続いていた。野良猫一匹通らない道行きだった。
も銀時も何も考えずに、夜の沈黙に耳を澄ます。
たまには、こんな日も必要なのかもしれない。酔って何も考えられない日には、何も考えさせない静かな夜が必要なのかもしれない。
「あれ、あいついんじゃん」
銀時の視線の先には、煙草の煙が立ち上っていた。夜に溶ける白い煙。その下に、夜と同じ色の黒い着物を着た土方が立っていた。真撰組屯所の正門で、
の帰りを待っていたかのような風情だった。
銀時に気付いた土方はあからさまに嫌そうな顔をしたけれど、その背中に
が背負われていることに気付くと眼を丸くした。
「……私、寝てることにして」
「あぁ? なんで?」
銀時の耳元で、
は消え入りそうな声で言う。銀時は伏せられたままの
の頭を見やりながら聞き返す。
は土方に気付かれないように、小さく首を横に振った。
「……酔っ払ったところ見られたことないんだもん。会わせる顔ないし、それに……」
「何?」
「……私が寝てたら、もしかしたらちょっとは優しくしてくれるかもしれないんじゃん」
「何それ? どういう乙女心?」
「……いいじゃない別に。私土方さんより先に寝たことなんてないんだから、今日くらい」
「お前、ホントに今日別人な。いつもそのくらしおらしくしてたらもうちょっと扱い違うんじゃねぇの?」
「ほっといてよ」
タイミングを見計らったのか、
はそれきり黙りこんでしまった。銀時はわざとらしく溜息をついて
に嫌味を投げつける。
そうこうしている内に、土方が真っ直ぐに立ったまま動かない屯所の正門にたどりついてしまった。銀時はその土方に向かって、片手を挙げて挨拶をした。
「よぉ、土方君。お迎えご苦労さん」
「ご苦労さん、じゃねぇよ。どうしたそれ?」
「酔っ払って寝ちまったんだよ。受け取れ」
銀時は言うなり、
の右腕をぐいと引っ張って、土方の方へ突き出した。その拍子に
の上半身がぐらりと傾いだので、土方は反射的にその手を取る。そのまま流れで、
は土方の背中に移った。
土方は戸惑いの表情を見せたけれど、
を受け取ってしまえば、ほっと安心したように一息ついた。やはり心配はしていたようだ。そうでなければ、こんな真夜中に屯所の外で帰りを待つなんてしないだろう。
「ったく、どんだけ飲んだらこんなになるんだよ?」
「こいつにもいろいろあるんだよ。今日くらい大目に見てやって」
銀時は凝った肩をぐるりと回して、首を左右に傾ける。それを見る土方は、腹の中に苛立ちを隠すように、目尻を吊り上げた。
「……、二人で飲んでたのか?」
「いや?
がばばぁのとこで飲んでてさ。潰れたから送ってけって、寝てるとこ叩き起こされたんだよ。迷惑してんのはこっちだよ? 実際」
「金なら払わねぇぞ」
「別にそんなこと言ってねぇだろ。
のことでそんながっつかねぇって」
銀時のその言葉に、土方はピクリと反応した。銀時がこんな真っ当な切り返しをしてくるとは思わなかったのだ。
「……
は、何か言ってたか?」
だからかどうか、土方もいつになく真剣に問い掛けてしまう。自分の背中で眠り込んでいる
を横目で見やって、一体この二人に何があったのだろうと考えた。
と銀時が今更二人で何を話そうが、何をしていようが、自分が干渉するのはおかしいことだ。常識はそうやって考えられる。けれど、どうしようもなく気になった。
「聞いても答えなかったよ。いろいろあるんじゃないの? こいつにも」
「まぁ、そうだろうけどよ」
「根掘り葉掘り聞いてやるなよ、女心となんとやらって言うだろ。じゃぁな」
「あ、おい」
土方の制止の声も聞かず、銀時は肩をぐるぐる回しながら、足早に夜道を引き返した。土方は
の重さに身動きがとれない。ふと、銀時が突然声を張り上げた。
「あんまり、やせ我慢すんなよー」
土方にはそれが何を意味するのか分からなかった。深読みをしようとしても何も考えられず、首を傾げるばかりだ。
すると、土方の肩に掛かっていた
の腕が寝ぼけたように土方の首に巻きついてきた。少なからずそれに驚いた土方は、
を振り返ろうとして首が廻りきらず、結局もう一度前を向いてため息をついた。なんだかとても疲れてしまった。
土方は踵を返して、屯所の門をくぐる。その背中で、
は空に浮かぶ月と同じように、唇をきれいな弓形にして笑った。
20100323