彼女の、ささくれだった傷だらけの手が好きだった。努力を惜しまない人間の手だと思っていた。
彼女は仕事に対して真摯な女で、身なりを整えることより、仕事をより効率よく完璧にこなすことに心血を注ぐのを生きがいにしているような女だった。周りにそこまでしなくてもと思わせるほどに、仕事にかまけて自分を蔑ろにする。
いつだったか、天ぷら油がはねて腕に火傷の痕を残したことがあった。けれど彼女はこんなもの痛くも痒くもない、と言ってからりと笑った。どうやらそれは痩せ我慢でもなんでもなく、本心から「一生体に残る傷」というものに頓着の言葉だったようだ。
そのたくましさに敬意を表すべきか、女なのだからもっと自分の体を大切にしろと説教するべきか、どちらも選べずにいることが悔しかった。彼女がそのどちらをも選ばせず、いつも平気な顔で笑っている。見ていることしかできないのは、いつだって悔しかった。
は、そんな女だった。
***
久しぶりの雨が降った。バケツをひっくり返したような激しい夕立だった。出先で傘も持たずにいたから、シャッターが下りた店先の屋根の下、
と二人で雨宿りをした。まだ日没には程遠い時間なのに、空は驚くほど暗かった。
「ったく、ひでぇなこりゃ。大丈夫か?」
ぐっしょり濡れてしまった上着を脱いで、肌に張り付く髪をかき上げる。隣を見やると、同じく
もびしょ濡れだった。
は苦笑いをして答えた。
「えぇ。本当、ひどい天気ですね。」
は前髪を払って、結っていた髪を一度ほどいて結び直す。そして左右の袖を絞って、手のひらで頬を拭う。
「……車回させるから、ちょっと待ってろ。」
そう言って携帯電話を取り出したものの、それは苦し紛れの策だった。目のやり場に困ったのだ。
雨に濡れた着物がぴったりと体に張り付いて、
はいつにもまして生々しく色っぽかった。明るい青色の着物は背中の肩甲骨の線を浮かび上がらせ、首筋に張り付いた髪の毛から、鎖骨に滴が流れ落ちる。
やばい、と思って、口許を手のひらで覆った。やましい気持ちから会話が途切れてしまって、沈黙が苦しい。どうやってこの間を繋げばいいだろう。
から視線をそらして、雨を眺めるふりをした。雨音がうるさい。その中で、隣に立つ
の呼吸の音が妙に耳についた。その小さな音が気になって仕方がなかった。
欲に逆らえず、横目で隣を見やる。雨に濡れて体が冷えたのか、
は合わせた両手を口許に添えてじっとしていた。自分は上着を来ていたからベストやシャツまではそう濡れずにすんだけれど、
はそうはいかなかったようだ。
その骨張った細い肩に、何か着せかけてやりたいと思う。けれど、今手元にはずぶ濡れで使い物にならない上着しかない。また、見ていることしかできなかった。
雨で冷えた体が時間が立つにつれて、どんどん冷えていくのが分かる。
の細い指が微かに震えていた。
は線の細い見かけによらず、女にしては力持ちだ。それは日頃の仕事ぶりから知られることで、業務用のどでかい炊飯器や鍋を軽々と持ち上げてしまえるほどなのだ。
けれど改めてその体を眺めてみると、いくら力持ちとはいえ、
も結局は女なのだ。いつの間にか、凝視してしまっていた。
細い肩と腕、浮き出た肩甲骨と鎖骨、帯に締め付けられた腰、濡れた着物から透けて見える足は頼りなく細くて、あるべきはずの胸や骨盤の、体の凹凸がほとんどなかった。鍛え上げられて引き締まった体ではない。毎日を必死で生き抜いて、磨り減った体だと思った。今までに見てきたこと、感じたことが体中に沁みこんで、こんな風にやつれたのだ。腕に残った火傷の痕が、暗く白い肌に沈着しているのが、痛々しかった。
「土方さん? どうかしましたか?」
声を掛けられてはっとした。いつの間にか
に見惚れてしまっていた。
「……お前、顔色悪ぃぞ。大丈夫か?」
誤魔化すような口調になったけれど、その心配は本心だった。濡れた額に落ちる髪が束になって、いつもより広く見える。その肌の色が青白かった。
「すいません、ちょっと寒くて……。でもこのくらいなら平気です。」
そう言いながら、
は堪えきれずに、小さなくしゃみをした。細い肩が震え上がって、ぎゅっと体が縮こまる。
「どこが平気なんだよ。」
「あはは、すいません。」
そんな状況でも
が笑うから、何だか居たたまれなくなった。その細い肩を掴んで無理矢理引き寄せる。
の濡れた着物も冷えていて、体と触れると驚くほど冷たかった。これでは
の体も相当冷え込んでいるだろう。腕に力がこもった。
「……ありがとうございます。」
ふいに、
の手が頬に伸びてきた。氷のように冷えた手が触れて、濡れた髪を頬から払う。その指先は、氷のように冷たかった。
「……何だよ」
「いいえ、何でも。水も滴るなんとやらって、こういうことかなと思って。」
「からかってんのか?」
「褒めてるんですよ。」
頬に触れた
の手は、やっぱり氷のように冷えている。その冷えた体をどうにか暖めてやりたくて、衝動的に口付けをした。折れそうに細い腰に腕を回して強く抱きしめた。見ているだけでは、もういられなかった。
の腕が背中に伸びてきて、抱きしめ返される。何か囁くような声がした気がしたけれど、雨音がうるさくてかき消されてしまった。だから、もう一度強く抱きしめた。
土方が、なんだかとても悲しそうな顔をしていたので、心配になった。
何かあったのだろうか、どんなことがあったのだろうか。想像しても分からないものは分からないので、深くは考えないことにする。その代わりに、肌に張り付いて邪魔そうな髪を払ってやった。
肌に直接触れることで、二人の距離がぐんと近くなる。そして、そのまま唇を重ねてみた。まるで試すように触れたつもりだったのに、思いのほか強く吸い付かれて戸惑った。抱きしめられた腕に力がこもって冷えた体に痛い。
けれどどこにも逃げ場はない。
雨足は強くなるばかりで、まるで雨の檻に閉じ込められているようだった。強引に抱きしめられて、もっともっと狭い場所に閉じ込められたような気分になった。
土方に何があったかは分からない。けれど、何か恐ろしいものに怯える子どものように絶望的な目をしていたから、思わずその耳元で「よしよし」と子どもをあやすように囁いた。雨が軒を叩く音が凄まじかったから、土方には聞こえなかったかもしれない。
それでも、別によかった。この人が悲しい思いをしないように、抱きしめてあげることができれば他のことは何でもよかった。
だからもう少しだけ、この雨に閉じ込められていたいと願う。誰もこの檻の鍵を開けないで、この人の悲しみが他の誰にも見つからないように、今だけは私だけのものでありますように。
そう、願った。

20110211