朝目覚めたら、いつもとは何かが違う事に気付いて鼻先で小さく呼吸をした。

つんと、甘酸っぱいような香りが風に乗ってやって来る。視線を向けたら、襖が閉まりきらずに細く開いていた。微かに見える空が白い。どうやら日の出はまだらしい。

起き上がって軽く伸びをすれば、背中の骨がぐきりと鳴った。立ち上がる。香りはまだ風に乗って届く。ささくれ立った畳を踏んで歩いて、薄い襖の隙間に指を差し入れて、開いた。

朝の穏やかな風の向こうに、白い空と桜色の木が見えた。甘酸っぱい香り。それを運ぶ春の風は、朝にはまだ大人しい。

「……さくら、か」

呟きながら、首を横に曲げて凝った関節を鳴らす。春を知らせるのはいつも、屯所の庭に威風堂々と立っているこの花木だ。毎年のことながら、ある日突然、まるで驚かすように桜はほころぶ。またこの季節が来たかと、あまり感慨もなく思った。一度部屋に引き返そうと踵を返す。

と、その爪先に何かが触れたような気がして、視線を落とした。足元に転がっていたのはかんざしだった。至って単純な作りをした、先端に小さな白い玉の飾りがついているだけのかんざしだった。

屯所で日常生活を送ることを唯一許されている女はだけだから、きっとその持ち物だろう。後で顔を合わせた時にでも渡してやろうと、それを拾い上げて懐にしまった。

桜の香りを孕んだ風が、部屋に戻ろうとする背中を押した。








あるひ桜








「それ、さんのじゃありやせんぜ?」

と、きょとんとした顔で首を傾げる沖田は、いつもながらに腹立たしい。かんざしを弄んでいる沖田を睨みつけてはみるが、沖田は何食わぬ顔で無視をしている。

「どういう意味だ?」

隊士達が発する騒音で騒がしい食堂である。その中心で、土方は味噌汁をずるずると啜って、沖田は右手に持った箸で焼き魚の身をぐちゃぐちゃにほぐしている。何故そんな汚らしいことをするのか、土方には意味が分からない。腹の中をぼろぼろにされたかわいそうな焼き魚を、何となくじっと見下ろした。

「土方さん、さんがこんな装飾品を付けてるところ見たことあるんですか?」

「どういう意味だ?」

「いつも仕事に追われてて着物だって似たようなもんばっか着てるような人が、こんなおしゃれアイテム持ってる訳ないでしょ」

「けどそんなもん持ってそうな奴なんてしかいねぇじゃねぇか」

「そうでもないですよ。妻子持ちの隊士なんていくらでもいるんだから、プレゼント用かもしれねぇじゃねぇですかぃ」

「んな訳あるか。包装もしてねぇで何がプレゼントだ。第一、副長室の前にそんなもん落としていくって、どんな神経してんだ」

「副長室の前に落ちてたんですか? これ」

「あぁ」

ふいに沖田が黙るので、かわいそうな焼き魚から視線を上げた。沖田はじっとこちらを見て、何度か瞬きをする。無表情な目はただ無表情なばかりで、何を考えているのか全く分からない。

「何だよ?」

「土方さん、もしかしてさん以外に女連れ込んでるんですかぃ?」

思わず典型的な頑固親父の如く、テーブルをひっくり返してしまった。沖田が厨房にいるを呼ぼうとしだしたから刀にまで手が掛かったけれど、隊士達に羽交い絞めにされて惨事は回避される。かんざしは、に話が伝わる前に沖田から取り返した。

図星を指されたからこんな行動に出たのだと思われるかもしれないが、断じてそんなことではない。このかんざしがの持ち物でないとするなら、それがどこからやってきたか、可能性として考えられる場所に心当たりがないわけではないのだ。

近藤さんに付き合わされて「スナックすまいる」には定期的に通っているし、行き付けの定食屋で働いている婦人だって毎日しゃれたかんざしをつけて着飾っている。考えて見れば、日常的に接している女の数は多いのだ。屯所の外で、何かの拍子に袖の下にもぐりこんでしまったのかもしれない。

仮にそうだとすれば、これは事だ。他人の持ち物を勝手に捨ててしまうのには抵抗があるし、警察に届けようにもその警察は自分だ。隊士の誰かが妻に送ろうとしていたものだったとしても、副長室の前に落ちていたものを自分がその隊士に届けてやる義理はない。落とし主を探し出すのは面倒だ。

つまり、届ける宛てのない女物の装飾品を意味も見返りもなく預からねばならない事になる。なぜそんな手間な事をしなければならいのだ、不満だった。

仕事の合間、パトカーの助手席から運転席の山崎にその事を話したらけらけらと笑われた。足の裏で山崎の側頭部を蹴って黙らせる。

「……痛っ……。そんなの、思い切ってさんに聞いてみたらいいことじゃないですか?」

「馬鹿。のもんじゃなかったらどっから拾ってきたのか問いただされても答えらんねぇだろう」

「問いただされてやましいことでもあるんですか?」

「いやねぇけど。別に」

「だったらいいじゃないですか」

のもんじゃなかったらどうすんだよ」

「他の持ち主を探せばいいんじゃないですか?」

「どうやって?」

「落とし主が隊士なら、屯所に張り紙でも張るとか」

「里親募集中の猫か」

「スナックのキャバ嬢か定食屋の女将さんなら、副長が直接尋ねていった方がいいかもしれませんね。さんに言えば代わりに持ち主を探してくれたりしそうですけど」

「じゃぁお前、にこれ渡して頼んでおいてくれよ」

「嫌ですよ、自分でやってくださいそれくらい」

「頼むって。三百円やるから」

「誰がそんなはした金で動くんですか。やましい事がないならいいじゃないですか、別に」

山崎にそこまで言われると何となく言い返せず、悔しかったから足の裏側でその横顔を蹴ってやった。

別にやましい事があるわけじゃない。仕事に追われていて女なんて二の次だし、女や色恋なんて、近藤さんのように仕事を放棄してまで執着することではない。

ただ、そういう女や色恋の匂いがする事を、の耳に入れる事が嫌なのだ。そんな事を聞いたらがどんな顔をするか、どんな言葉をかけてくるか。どうせ嫌味な顔と言葉を向けられるのだから、わざわざこちらから伝える事はない。

江戸の街はほころびかけた桜の花に浮き立って、気の早い花見の宴を催している集団がいる。公園の桜の木の下、茣蓙を敷いて酒を煽る人の姿が見えた。もうそろそろ真撰組の花見の準備をしなければならない。今年も山崎に幹事を押し付けることにしよう。

「どうでもいいですけど、副長。今夜は松平のおやっさんと会談があるんでしょ? さんの事よりそっちの事考えておいた方がいいんじゃないですか? どうでもいいですけど」

そうして帰りが遅くなって、真夜中の屯所に帰った。近藤さんは酒に酔って、隊士達に担がれて部屋に戻った。騒がしかったのはその時だけで、静かな夜に煙草だけ吸いながら部屋に戻る。道すがら、隊士達にあてがわれた大部屋から響いたいびきに驚いた。

「あ、土方さん?」

「うおっ!」

夜闇から、唐突にが姿を現した。いびきに気を取られていたせいで、まるでそこに湧いて出たように見えた。煙草が口から零れ落ちそうになる。

「……なんだ、か」

溜息を吐く。ぐしゃりと頭を掻きながら、驚いて動悸の激しくなった心臓を落ち着けるために深呼吸した。は風呂上りらしく、頬を朱色に上気させている。黒髪がつややかに輝いていた。

「なんだとは何ですか?」

「こんな時間にこんな所うろついてんじゃねぇよ。犯されんぞ」

「大丈夫ですよ。皆もう寝ちゃってます」

の声に答えるように、大部屋から一際大きないびきが鳴った。は僅かにだけ驚いて、くすくす笑った。

誰かを起こしてしまうと悪いから、とが言ったので、一先ずは副長室に引き上げることにする。部屋の灯りを点けて、改めて煙草を吸い直すなり、が縁側から言った。

「沖田君が、土方さんからお話があるって伝言を聞いてきたんですけれど」

思わず、脱いだ上着と刀を取り落として、足の小指に強か打ちつけた。あまりに唐突で局部的な衝撃に涙目になる。しゃがみ込みそうになるのを何とか堪えていたら肩が震えたようで、が縁側から「大丈夫ですか?」と心配した。沖田あの野郎、と心中で呪った。

痛みが引くのを待ちながら、この局面をどう乗り切ろうかとあれやこれや考えを巡らした。を待たせて、極力ゆっくりと着替えまで済ませた。けれど結局妙案は浮かばず、どうにか一瞬で覚悟を決めた。どんな嫌味な顔や言葉を向けられても、この際耐えようと思った。

「……今朝見つけたんだが、これお前のか?」

ぶっきらぼうに言いながら、懐から例のかんざしを取り出してに差し出した。手のひらの上にちょこんと乗った、白い玉飾りのかんざし。はそれをきょとんと見つめて、それからゆっくりと見上げてきた。
やはり、の持ち物ではなかったのか。嫌味が飛んでくるのを覚悟で眉根を寄せた。

「これ、どこで見つけたんですか?」

「……ここの縁側だ。今朝起きたら落ちてた」

はかんざしを受け取って、部屋の灯りに照らすようにしてそれをじっくりと眺めている。予想していた言葉が返ってこないことが不思議で、ついまじまじとの顔を眺めてしまう。かんざしをじっと見つめて考え込んでいるの頬が赤い。着物の袖が捲れて、その細く白い腕が覗き見えた。

「あ。思い出した! 桜のかんざし!」

しばらく考え込んでいたは唐突に、声を上げて顔中で笑った。

「さくら? 桜なんてついてねぇじゃねぇか」

「この白い玉飾りがあるでしょう? ここに元々花びらが五枚付いてたんです。全部取れちゃったんですけど。安物だったみたいなんですよね」

「”みたい”?」

「去年の誕生日に、銀さんがくれたんです」

怠け者のの万事屋の名前を聞いて、眉の辺りが痙攣するような、こめかみが焦げ付くような、胸が焼けるような気持ちになった。酒に酔ってはいないはずなのにと、指先でこめかみを揉む。腹が立つとか、そういう類の感情とは違う。万事屋との付き合いを疎む感情に近い、もっと生理的な何かだ。

はそれに気付いている様子もなく、笑顔でかんざしをくるくると回しながら一年前の記憶に思いを馳せている。

「お酒を飲んだ帰りに、怪しい露天商で買ったらしいんです。誕生日を覚えててくれたとは思ってなかったから、嬉しかったな」

「……それ、使ってたことあったか?」

「そんなに頻繁には使ってないですよ。脆そうだったし、仕事中は邪魔ですから。何度かお出かけの時に付けたんですけど、それだけで壊れちゃったんだから、ひどいですよね」

そう言いながら、は心底嬉しそうに桜のかんざしを眺めていた。夜風が吹く。庭の桜木が揺れて木立がざわめいた。ほころんだばかりの花びらが弱々しく散った。それがの髪に、吸い付くように引っかかる。はそれにも気付かず、ようやくかんざしから顔を上げて見上げてきた。

「拾ってくださって、ありがとうございました」

はかんざしを大切そうに胸に抱いて、人の気も知らずに気持ちよく笑っていた。それを見たら、訳の分からない気持ちが手を動かした。

の髪に触れて、引っかかっていた桜の花びらを取ってやる。それを何となく指先に乗せて、見下ろした。桜色というよりは、白色に近いさくら色だった。

「誕生日、春なのか?」

「えぇ」

「いつ?」

「今日でした。実は」

「いや、言えよそういう事は。あいつら喜んで宴会開くぞ?」

「だって、今日は松平様と会談だったんでしょう? 私事で迷惑は掛けられませんよ。それに、この歳になって誕生日なんていいもんじゃないですし」

は、この人は一体何を考えているのだろう、と言いたげに首を傾げている。その視線を真正面から受けることが妙に気恥ずかしくて、視線を逸らして指の上の桜の花びらを庭に落とした。風に乗って思うがけず遠くまで飛んだ。

「……明日、近藤さんあたりに相談しとく」

「そんな、気を遣ってくれなくてもいいのに……」

「気にすんなって」

押しが強すぎたかとは思ったけれど、結局の方が先に妥協して、明日の朝一番に酒屋へ行ってくると申し出てくれた。の誕生祝いだというのに自身に買出しをさせるのは気が引けたけれど、は買出しこそが楽しいのだと言わんばかりに笑っていたので、とりあえず良しとすることにした。

「ありがとうございます。土方さん」

が庭の桜木に目を向ける。つられるように同じ桜木を見た。満開にはもう少し時間が掛かりそうな、まだ寂しい桜だ。けれど春の風は温かい。甘酸っぱい香りが微かに鼻につく。

もう春なんですね、と、が呟く声がした。



20090323