先日から屯所で女が一人働いている。近藤局長自らが選んで雇った家政婦で、名前をという。











蓮華ヶ夜












屯所の庭にはロープが張り巡らせてある。そこで洗濯したシーツを干しているの後ろ姿は家庭的で、結った髪の下から覗くうなじは白く艶かしい。帯を締めた腰が妙に細くて折れそうだ。母性と官能性を同時に持ち合わせたような女だ。一見しただけでは頼りない印象が強い。けれど、屯所内の掃除も隊士達の着物の洗濯も炊事も、たった一人でよくこなしてくれている。こんなに大量の仕事にどうやって手を回しているのか、感心してしまうほどだ。そんな訳はないのに、という人間は二人いるんじゃないかと疑いたくなるくらいだったけれど、まぁそれは無いだろう。そんな訳は無い。

実は、土方はそんなが気に食わなかった。
隊士達の甲斐性の問題はさとおきとして、荒くれ者の男集団の中に、世に慣れた女が一人。この図式は顧慮すべき物だ。古の遥か昔にはその美貌と知性に物を言わせて国を滅ぼした女王がいたと言う。まさかそこまで大袈裟に考えたりはしないけれど、土方の信条のひとつに合致する教訓ではある。曰く、女は信用ならない。

ふと、が振り向いた。

「あら、副長。おはようございます」

笑顔は清々しく、朝の清らかな太陽がよく似合う。
縁側の柱に寄りかかって仕事姿を眺めていた土方は、隊服のベルトに差した真剣を小さく鳴らした。威嚇と疑いの意味を込めて。

「朝からご苦労なこったな」

嫌味な声音はわざとだ。生来の目付きの悪さも加わって、相手に異様なまでの威圧感を与えることを土方は知っている。
けれどは鈍いのかどうなのか、笑顔を崩さないまま振り返って、シーツの皺を伸ばすようにその端を引っ張って、ぱんっと気持ちのいい音を立てた。

細い後姿。まるで細い木の幹だ。一掴みしたら折れそうで、一本に結った髪は黒々と輝る。外面だけならいい女だ。もしもキャバクラなんかに勤めていたらさぞモテるんだろうなと、どうでもいいことを思った。

「副長こそ、お早いんですね」

「今日は早番だ。もうそろそろ出る」

「そうですか。お帰りはお昼ですか? 昼食の用意はどうします?」

「外で済ます。そこまで面倒頼む訳にはいくかよ」

「私は構いませんけど。あぁ、外に好い人でもいるんですか? 野暮な事言ってすみません」

「そんなんじゃねぇよ。勤務中だっつの」

かわされた気がした。あからさまな悪意を投げつけているというのにそれが通じた気配がまるでない。背を向けたの表情は伺い知れない。が何を考えているのか、土方には全く分からない。
土方は眉根に刻まれた皺を深くして、ちくしょうと軽く舌打ちをした。は手強い相手だ。言葉の選び方がうまくて、土方の嫌味をひらりと受け流してしまう。どうすればの化けの皮を剥がせるのか、土方はを見るとそればかり考えている。

こういう類の女は今まで何度か見てきた気がするが、どこでだっただろうか。飄々として身軽で、笑顔を作るのがうまい。引き際を心得ていて、かといってつれない訳でもなく、人との距離を保つ能力に長けている。
そうだと、思い至った。一枚壁を隔てて会話しているような感覚。これはまるで遊女の特性だ。もしかしたらには水商売の経験でもあるのだろうか。

「あら、ばれました?」

聞いてみたらあっさり肯定されて、土方は軽くむせた。

稽古中の道場で交わされた言葉は、怒声やら奇声やらの騒がしさで掻き消される。床の間に座って隊士達を睨み付けている土方と、壊れた竹刀を直す仕事をしている。会話は誰にも聞き取れないだろう。だからこそこんな事が聞けた。

「まじでか?」

「えぇ。そんなに驚かなくてもいいじゃないですか」

土方は煙草を口から離して、横目でを睨み付けた。

「お前、履歴書にそんな事書いてなかったじゃねぇかよ」

「当たり前ですよ。普通就職活動で自分に不利な情報晒したりしないでしょう?」

「近藤さんは? 知ってんのか?」

「いいえ、話してません。まぁ、言ったとしてもあの人だってキャバクラ通いしてる身なんですから、とやかく言われることはないと思いますけれどね」

妙な説得力を匂わせて、はにこりと笑った。の言うことはもっともらしい。理論で裏付けられた正しさを口にしているように見える。けれどこれはあくまでも言い訳で屁理屈だ。
なんて厄介な、と土方は思う。が秘密にしている事はおそらくこれだけではないだろう。面倒な過去さえ持っていなければいいが、のことだからどうだろう。見当がつかない。それにの経歴が隊士達に露見してしまったら、気性の荒い田舎者のこと、どうなるかは目に見えている。に身の危険が迫ることになるかも知れない。

「誰にも言うなよ」

履歴書にも書かなかったくらいなのだからその心配はないはずだけれど、土方はつい言ってしまって照れた。どうして得体の知れない女郎上がりの女なぞ心配せねばならないのか。

「分かってます。私だって首になりたくありません」

はいつもの通りに、にこりと笑って答えた。
それを聞きながら、土方はの手元を盗み見る。竹刀を直す手付きは淀みなく、むしろ慣れているようにも見えた。これだけ手先が器用なら職になど困らないのではないかと疑ってしまうのは、昔から刀を扱う事しか知らなかった自分の僻みかも知れない。けれど勘違いではないだろう。

独り身の女には生き難い時勢だ。には昔から家族がないらしく、一人で生きていくには働かざるを得ないのだという。けれどよりにもよって世間の評判の悪さでは一二を争う真撰組を就職先に選ぶ理由は何だろうか。

土方は考えに耽ってしまうと、いつもの倍の速さで喫煙してしまう癖がある。だから近頃の煙草の消費量が半端ではない。携帯灰皿は直ぐに溢れかえってしまって意味を為さないし、部屋の灰皿も吸い殻の山が崩れんばかりだ。

何が面倒ってその処理だった。それを怠ると屯所炎上という事態にもなりかねないのでサボる訳にもいかないのだけれど、静かな夜の静寂にわざわざ吸い殻をまとめて摘めて袋の口を縛って捨てるなんて、風流の欠片もないことを好き好んでしたくもない。が、土方はなんだかんだでまめな性格をしているので、そう欲望のままに生きることは出来なかった。

「……」

屯所の床は隊士達が暴れまわるので酷く軋む。夜は音が響くので、土方の存在感は昼のそれより尊大だ。

「げ、副長っ……」

だからこそではないけれど、吸殻を片手に台所に出向いた土方を見て、そこにいた寝巻き姿の隊士二人がぎくりと肩を強張らせた。会議にも出席できないような下っ端の隊士だけれど、土方の頭の中では顔と名前が一致する。小林と沓崎。

「何やってんだお前ら? こんな時間に」

「あら、副長」

歩みを止めずに土方が問うと、予想外の方向から声が返ってきて振り向いた。台所の真ん中に立って、洗い終わった皿を食器洗い機から取り出しては布巾で拭く作業をしていたのはだ。

瞬間的に状況を理解した土方は、火が着きそうな視線で小林と沓崎を睨み付けた。

「おいてめぇら」

「そそそそれじゃさん! 俺達はこれで! おやすみなさいぃ!」

同時に言った二人は、の返事も待たずに床板を軋ませながら駆け足で行ってしまう。

土方は満足気に煙を吐いて、口の中だけで悪態を吐いた。心配していた事態がここまで予想通りに起こってしまうとむしろ感心してしまう。どれだけ単純なのだ、うちの隊士達は。

「大丈夫だったか?」

はまるで何もなかったみたいに皿を拭き続けながら笑った。

「えぇ。ありがとうございます」

「悪かったな。俺の指導不足だ」

「慣れてるから平気ですよ」

なんだかとても説得力のある言葉で、土方はつい呆れてしまった。いくら水商売の経験が長いとはいえ、「慣れている」なんて言われてしまったら謝罪したこちらの立場がない。どれだけ強かなのだ、この女は。

「ところで、副長は何の御用ですか?」

「あぁ、」

土方は片手に持っていた吸殻山盛りの灰皿を軽く持ち上げて、ぼそりと言った。

「捨てに来た」

言った後に気付く。なんだかとても情けないというか、羞恥心を撫でられると言うか、間違った事を言っている訳ではないのにこうも気まずい思いがするのは何故だろう。

は持っていた皿を一度置いて、土方に歩み寄るとその灰皿を受け取った。不意打ちの行為にぽかんと突っ立ったままの土方は、が吸殻を処理して灰皿に残った灰を雑巾で拭うのを眺めていた。

随分と気の利く事だ。生き方がうまいというか、人に好かれる術を心得ているというか、きっとそのどちらもだろう。

けれどわざとらしいと思えばそうだ。疑りすぎなのかもしれない。考えすぎなのかもしれない。それでも土方の心情は、信用できない女には用心を重ねなければならないという、ほとんど義務に近い執着に支配されている。

「どうぞ」

空になった灰皿を受け取って、土方はさっそくそれに煙草の灰を落とした。煙を吐く。
そして、呟いた。

「……小腹が空いた」

「え?」

はきょとんと目を丸くする。土方は煙草を咥えたまま、くぐもった声で言った。

「仕事終わらせてからでいい。何か作って持って来い。部屋で待ってる」

「……はい。分かりました」

土方はそろそろ限界だった。このままに騙されてやる謂れはない。そろそろ化けの皮を剥がさなければならない。騙されたままでいられるか。そんな訳にいくか。

灰皿を持って踵を返した土方は、真っ直ぐに自分の部屋に戻って、縁側に座布団を持ってきてそこに座る。信用も信頼も何もない女を部屋に入れるつもりは毛頭ない。

ターミナルのネオンが照らす夜は明るく、月や星は肩身が狭そうだ。比較的緑の多い屯所の庭では微かに虫の音が響いている。嘘くさい夜だった。

が盆に茶碗と湯飲みと箸を乗せて運んできたのは十分も経ったくらいで、それは梅干が真ん中に乗った茶漬けだった。

「お持ちしました、副長。お茶漬けでよかったですか?」

「あぁ」

は盆を一度床に置いて、湯飲みからお湯を注いでから土方の前に差し出す。煙草の火を消した土方は、袖の下からマヨネーズを取り出して茶碗から溢れんばかりに掛けた。は黙ってそれを眺めていて、土方もそれを気にしない。
しばらくずるずるとお茶漬けを啜る音だけ鳴っていた。どちらからも目を合わせないし、言葉も交わさない。いつもあるはずの煙草は、今は火が着いていない。

「先に、お布団延べてましょうか?」

と、が腰を浮かしかけながら言ったので、土方は待っていたと言わんばかりに茶碗を盆の上に戻した。かたん、と存外大きな音が鳴って、は驚いて足を止める。
土方は口の中の物を飲み込んで、茶で喉を潤した。

「別にいい」

「いえ、でも……」

「いいからそこ座ってろ」

は不服そうに目を細めて、もう一度正座し直した。土方の横顔を眺めるの目は土方を観察するようにまんじりと動かない。
土方は食後の一服に、煙草に火をつけて長く吸う。ため息のように吐いた煙は流れて、空気に紛れて消えた。

「……言いたいことがあるなら、はっきり言ってもらえませんか? 副長」

とうとうは痺れを切らす。ため息と共に出た言葉は普段の余裕綽々な態度とは裏腹だ。土方の言う事為す事を理解できずに、言葉も行動も持て余しているのだろう。
土方は横目での困り顔を眺めながら、後ろ手に片手を着いて寛いだ。

「何の話だ?」

「何のって、それがあるから呼んだんじゃないんですか?」

「別に。小腹が空いただけだってさっき言っただろ」

「だったらさっさと私を戻せばいいじゃないですか。部屋に入れるでもなく、何がそこに座ってろ、です? 意味が分かりません」

の声は鋭く、表情には笑顔もない。無表情と言えばそう、けれどそれ故に凄みがあって憤りが濃い。初めて見る私情露なは、土方には面白くて仕方がなくて人が悪そうににやりと笑った。

「そういうお前はどうなんだよ?」

「え?」

「俺に足開くつもりでここに来たんだろ? 残念だったな。予想が外れて」

「……何が言いたいんです?」

「てめぇの思い通りに事は運ばねぇって事だ」

土方が長く煙を吐き出すのを見て、はまるでそれを真似る様に大きな溜息を吐いた。吐き出すという形容がぴったり合うくらいに盛大な溜息だ。

土方が目配せすると、は首を傾げて苦笑した。

「私が、ここの慰み者になるために家政婦になったって、そう言いたいんですか?」

「そこまで言ってねぇよ。ただ、それ位の覚悟はあったんだろ?」

「状況が状況であれば仕方ない、位には思ってましたけど」

「止めとけ。性質悪い。そんな事になったらこっちだって困んだよ」

「そうでしょうね。だから助けてくれたんですか?」

言って、はふいにくすりと息を漏らして笑った。
口元に手を当てて肩を揺らしながら笑うを眺めながら、土方は短くなった煙草の火を消して新しい物に火を着ける。そうしている間に、は声を出して笑った。

「もう、何なんですか。副長」

「何がだ?」

「分かってるくせに、とぼけないでください」

の仕草を横目で眺めながら、土方はもう何を言うでもするでもなく、煙草を味わう事に没頭していた。指先でリズムを取って、煙を曖昧な形にくゆらせる。

の笑い声は、この嘘臭い夜に似合って心地良かった。さすが元遊女。けれどそれ以上に、の姿形や声や雰囲気は、元々夜に在る為にあるようなもののように土方には思えた。

今こうしてと二人でいることが、隊士達への圧力になればいい。を隊士達の慰み者にするわけにはいかない。風紀が乱れる事への恐れ。また、をそんな目には合わせまいという目当て。それが叶うなら、と妙な噂を立てられるとしても、そんな事どうでも良いと思えた。

「あぁ、そうだ。もう一つ言う事あったな」

「何ですか?」

夜に白い煙が流れている。それは雲のように、薄墨色の空に広がって白く曇った。夜。まるで嘘のような。

「俺はお前の副長になった覚えはねぇ」

「あぁ、そうでしたね。失礼しました、土方さん」

はそう答えてまた笑った。土方は酷く安堵して、その笑顔を眺めていた。



20080420