この日、新八は珍しく、日が落ちても万事屋に居残っていた。

 日が沈む少し前に万事屋を出て行った銀時は、時計の針がてっぺんを過ぎてもまだ帰ってこない。宇宙最強の戦闘種族・夜兎の末裔とは言え、まだ14歳の女の子である神楽をひとり残していくのも良心が咎める。階下には歌舞伎町四天王のひとりお登勢もいるし、たとえば万事屋が空き巣に狙われたとしても、神楽のことだ、自分の出番などきっとないことも分かってはいるが、新八にも男のプライドがあった。

 煎餅を齧りながらボリュームを小さくしてテレビを見ていた新八は、ガラスの引き戸が開く音を聞いてすぐさま腰を上げた。
 
 神楽はもうとっくに押し入れの中の床についていて、定春と一緒に健やかな寝息を立てているので、起こしてしまわないように声をひそめる。

「銀さん? 帰ったんですか?」
「あぁ、新八君。よかった、いてくれて」

 新八の予想に反して、灯りのついていない玄関から響いてきたのは細い女の声だった。暗がりによくよく目を凝らすと、小さな女の体に銀時が体を斜めにしてもたれかかっている。

「えっ、わっ、は!? さん!? ですか!?」

 新八は上ずった声を出して、思わず顔を赤らめた。まだ恋人のできたことのない新八は、男と女が体を密着させているというだけであることもないことも瞬時に妄想してしまう。

 は苦笑いをして、どうにか銀時の重い体を支えながら新八を手招きした。

「ごめんなさい、ちょっと、助けてもらえる?」
「あ、はい!」

 銀時の肩の下に体を入れると、むっとしたアルコールの匂いに襲われて、新八は思わず身を引きそうになった。銀時はゆでだこのように体中を真っ赤に染めていて、意識があるのかどうかも定かではない。

「ちょっと! しっかりしてくださいよ、銀さん!」

 銀時は返事をしたつもりなのか、ううんと低い声で唸った。自立する力はないようだが、まだ半分意識はあるらしい。

 新八が銀時の体を支えている間に、が銀時のブーツを脱がせる。が、片足を持ち上げた拍子にバランスが崩れて、新八は銀時もろとも床に体を打ち付けてしまった。

「いった!」
「大丈夫?」
「えぇ、はい。まったくこの酔っ払いは世話の焼ける……!」
「銀さん? ちょっと、しっかりしてよ」

 が銀時の肩をぐいと引っ張り上げると、銀時はうつ伏せに倒れた状態からどうにか腕を床に立てたが、そこから全く動けなくなってしまった。

 新八はずれた眼鏡を直しながらため息を吐いた。

「もう、放っておきましょう。とりあえず毛布でもかけておけば大丈夫ですよ、真冬でもないんだし」
「それもそうね。ごめんなさいね、こんな夜中に騒ぎ立てちゃって」
「こちらこそ、この馬鹿がご迷惑おかけしてすいませんでした。女性ひとりで大変だったでしょう」
「途中までは自分で歩いてくれたんだけどねぇ」
「あの、もう遅いですから、僕、送りますよ」
「そう? 悪いわね、それじゃ……」

 と、その時だった。突然銀時ががばりと身を起こし、手のひらで口をふさいでみるみる青ざめたかと思うと、の膝の上に大量に吐いた。生暖かいどろどろが、胃酸の酸っぱい匂いをさせて物言わぬ生き物のようにの膝と床の上に広がる。

 と新八は顔を見合わせて、なんとも言えない顔をして笑い合った。
 笑うしか、なかった。





 ふたりがかりで銀時を和室に運んでから、新八は吐瀉物を片付け、は汚れた着物を着がえた。万事屋に女物の着物の替えなどないので、は銀時が何枚持っている流水紋の着物を一枚拝借した。男物の着物はどうやってもの体には合わず、裾はおはしょりをたっぷりとってなんとか合わせていたが、袖は手の甲がすっかり隠れてしまうほど長いが、仕方がない。

 汚れた着物は、新八が洗った。大まかな汚れを手洗いで落としてから、洗濯機に放り込んでおく。夜中に洗濯機を回してしまって、新八はお登勢やキャサリンから苦情が来ないことを祈るばかりだ。

 新八がお茶を淹れて居間に戻ってくると、は黒電話を使ってどこかに電話をかけていた。

「あ、ごめんなさいね。勝手に使っちゃった」
「いえ、ご自由にどうぞ。お茶でもいかがですか?」
「ありがとう」

 テーブルを挟んで向き合って座り、新八とはそれぞれに茶をすする。

「着物、本当に普通に洗濯しちゃってよかったんですか? おしゃれ着洗いとかじゃなくて?」
「大丈夫よ、普段着だしね。むしろそのままビニール袋にでも詰めてくれてよかったのに」
「いえ、そんなわけにはいきませんよ。あぁいうのは染みになっちゃう前に落とさないと」

 新八は扉を開けたままの和室を見やって、げんなりと目を細めた。酔いつぶれた銀時は屍のように白い顔をして、大の字になって眠っている。いや、気絶していると言った方が正しいのかもしれない。布団の上掛けはきちんと胸の上までかかっていて、きっとがそうしてくれたのだろうと新八は推測した。

 新八は湯呑を置くと、膝に手をついて深々と頭を下げた。

「今夜は本当に、すいませんでした。銀さんに代わってお詫びします」

 は慌てて首を横に振った。

「ううん、いいのよ。元々、食事に誘ったのは私の方だし、飲ませ過ぎちゃったのも悪かったわ。私がもっと注意してればよかったのよね」
「そんな、こんなになるまで飲む方が悪いんですよ」

 銀時と食事に行っていたというが、あまり酒は飲まなかったのだろうか。はほんのりと頬が赤く染めている程度で酒の匂いもしない。新八は不思議に思って、まじまじとを観察した。

 銀時とは子どもの頃からの知り合いで、銀時が攘夷戦争に参加するようになる前までは同じ屋根の下で一緒に暮らしていたのだそうだ。新八から見ても仲が良く、ふたりで団子を食べに行ってよもやま話をしたりしている様は、確かに気の置けない仲、という雰囲気を漂わせていて、銀時とそんな風に打ち解けて話をする人は他にいないから、新八にとっては珍しい存在だった。

 昔馴染みと言えば桂や坂本がいるが、ふたりといるときの銀時はつっこみに遠慮がないところあって、なるほど、付き合いが長くなると銀時はここまで手加減をしなくなるのだなと納得するところはある。けれどは女性だし、桂や坂本のように突拍子もないボケを連発したりしないので、同じものさしでは銀時との仲の良さを測れない。

 特に、新八には大きな大きな謎がある。男と女に友情はなりたつのか。

「あの、さん」
「なに?」
「あの、こんなこと聞くのはどうかと思うんですけれど……」
「別に聞かれて困るようなことはないと思うけど」
さんは、もしかして銀さんと付き合っていたんですか……?」

 新八が勇気を出して振り絞った言葉を、は軽快に笑い飛ばした。

「私が、銀さんと? ないない。そんなわけないじゃない」

 片手をぶんぶんと振って、はけらけら笑った。新八は拍子抜けして、少しずれた眼鏡を直した。

「そうなんですか? すごく仲がいいから、てっきりそうなんだとばっかり……」
「本当に小さい頃から知ってるから、恥ずかしいこともみっともないことも隠しようがないのよね。だからそう見えるんじゃない?」
「そういうものですか?」
「新八君にはいないの? 小さい頃の恥ずかしい思い出、全部知ってる幼馴染」

 顔と前歯の長い寺子屋時代の親友の顔を思い出して、新八はバツの悪い気分になった。確かに、よっちゃんには誰にも知られたくないような子ども時代の黒歴史をほとんど知られてしまっている。

「よく分かりました。だから、さんは銀さんにげろまき散らかされても怒らないんですね」

 前後不覚になるほど酒に溺れ、家路まで面倒を見てやらなければならなくて、大の男ひとりを抱えてここまで来るのはそれは力のいる仕事だったろうし、あまつさえ、膝の上に吐瀉物を吐き散らかされても、は顔色ひとつ変えずにいることが、新八にはただただ驚きだった。もし新八が同じことをされたら、酔って意識のない相手だろうが怒鳴り散らすくらいはするし、これが神楽がなら、ぼこぼこに殴り飛ばした後、最低でも一週間は口をきかない、くらいはするだろう。

 ところがは文句ひとつも言わず、吐いたまま意識を失った銀時を横向きに寝かせ、顎を掴んで口を開き、そこに指を突っ込んで口の中に残った吐瀉物を掻き出してまでやるのだ。もはや老人介護の域だ。

「すごいですね、とても僕には真似できません。尊敬します」

 しみじみと言った新八に、は困った顔をして首を傾げた。

「まぁ、怒ってもしょうがないじゃない、酔って意識失ってる人に対して」
「明日銀さんが目を覚ました後になら、どうですか?」
「二日酔いでとても私の話なんか聞いてくれないんじゃないかしら」
「それも治まったら?」
「銀さんのことだから、お酒のせいにしてきれいさっぱり全部忘れちゃってるんじゃないかしら」

 そう言って、は菩薩のような顔をして微笑んだ。

 新八はなんだか怖くなって、こっそり首の裏の汗を拭う。銀さんの友達の中では比較的普通の人だと思ってには信頼を寄せていたつもりだったが、桂や坂本とは全く違う方向にずれているだけで、どこかおかしなことには変わりないのかもしれない。

さんって、優しいんですね」

 そんな当たり障りのない言葉しか出てこず、新八は苦笑いした。

「私は新八君の方が優しいと思うけどな」
「え? どこがですか?」
「だって、銀さんの帰りを待って、こんな時間まで起きていてくれたんでしょう?」
「それは、だって、神楽ちゃんもひとりじゃ寂しがるだろうし……」

 新八は照れくさくなって、頬を赤らめて頭を掻いた。

 洗濯機が回る音が、少しうるさい。リサイクルショップでただ同然まで値切って買ったという万事屋の洗濯機は、型が古くて使うたびに異音がする。耳障りな音がやけに響く。

「銀さんって、昔からあぁだったんですか?」
「あぁって?」
「お酒に飲まれて潰れたりとか……」
「さぁ、一緒に飲むようになったのは江戸に来てからだから」
「あぁ、そうなんですか。でもきっと、あぁいうだらしないところは相変わらずなんでしょうね」
「興味がある?」
「え?」

 はいたずらっぽく笑って、新八の眼鏡の奥を覗き込む。

「子どもの頃の銀さんのこと。銀さんって、あんまり昔の話しないでしょう?」
「どうして分かるんですか?」
「だって私にもしないんだもの。分かるわよ」
さんにもですか」
「こんな事あったねって、ちょっと昔話をするとね、いつもはぐらかされちゃうのよね」
「どうして、なんでしょうね」

 新八は湯飲みに映った自分の顔を見下ろして、苦笑した。思った以上に頼りない情けない顔をしていて、自分のことながら呆れてしまう。

「僕は、銀さんのこと家族みたいに思ってるんです。なんでも話して欲しくて、本人にもそう言ってるんですけど、ちっとも心を開いてくれてる気がしなくて、のれんに腕押しって言うか、全然手ごたえがなくて」
「まぁ、そうなの」
「いざという時に頼ってくれないし、何でもかんでもひとりでやろうとして、失敗して落ち込んで、そうやっていちいち自分に絶望して、もう見てらんないですよ。僕と神楽ちゃんが無理やりにでも扉こじ開けていかないとダメなんです。飛び込んでいかなくちゃダメなんです」

 そこまで言って、新八ははっとしてみるみる顔を赤くした。何をこんな青臭いことを熱く語っているのだ、恥ずかしい、穴があったら入りたい。穴がないなら今すぐに自分で掘りたくなった。

「いや! あのなんかすいません! 変なこと言って!」

 無意味に手をばたつかせた新八を、は穏やかに微笑みながら見つめていた。その温かい眼差しには、からかいやあざけりや、新八が想像していた嫌なもののかけらもなくて、新八はあっけにとられてしまう。馬鹿にされるかと思っていたのに、は何にも言わずに静かにお茶を飲んでいた。

 新八もその真似をして、ゆっくりお茶を飲んで、急上昇した心拍数をどうにか落ち着かせた。

「新八君は、やっぱり優しいわね」
「いや、そんなことはないですよ、全然」
「その人の良さが、銀さんには眩しいんじゃないかな」
「え?」
「知っているかもしれないけど、銀さんって、結構かわいそうな生い立ちしてるから。聞いたことある?」
「まぁ、断片的には……」
「これは私の勝手な想像だから、あんまり深刻に受け取らないんで欲しいんだけど」

 は湯呑の中にじっと視線を落として、悲しげに微笑んだ。その瞳が一瞬、底なし沼のように真っ暗に光ったのを、新八ははっきりと見た。

「銀さんって、自分の幸せってなんなのか、分からないんじゃないかと思うのよ」
「幸せ、ですか」

 突然、何を言い出すのだろう。そう思ったが、新八はの瞳の奥の暗さから縛られたように目を離せなくなる。

「そう。新八君は幸せってなんだと思う?」
「そうだな、毎日美味しいご飯が食べられて、家族が元気で、あぁ、姉上が笑っていてくれたらいいな。あと神楽ちゃんと定春が元気で、銀さんと三人でいつまでも万事屋を……って、なんかすいません。小さいことなんですけど」
「そんなことないわよ。いいと思う」
「銀さんの幸せって、なんなんでしょうね」
「さぁ、難しい問題よね。本人にしか決められないことだから」
さんと何年かぶりに再会して、きっと嬉しかったと思うんです。さんとたまにお酒飲んだりできるのはしあわせなんじゃないですか?」
「それはどうかな。私、お財布代わりにされてるだけだと思うわよ」
「え? もしかして毎回奢ってるんですか?」
「まぁほとんどね。たまにギャンブルで当たった時は奢ってくれるけど、でもそんなところよ。私みたいに気軽にたかれる人間がいてラッキーくらいにしか思ってないと思うわ」
「そんなことで寂しくないんですか?」
「ううん、別に」
「え?」
「たとえお財布代わりに思われていても、それで少しでも銀さんの助けになるならいいの。膝の上のげろ吐き散らかされようが、許すの。何をしたって許されないようなことを、私は銀さんにしたんだもの。銀さんを叱ったりできる資格、私にはないわ。だから、銀さんのことは新八君が叱ってあげてね」
「……でも、銀さんはさんのことを好きですよ、きっと」
「それでも、銀さんを幸せにすることは、私にはできないわ。それはきっと、新八君と神楽ちゃんの役目」
「……でも」
「きっと大仕事よ。でも、どうか、あきらめないで、銀さんのために、頑張ってあげてね」

 その時、ぴんぽんと、玄関のチャイムが鳴った。

「こんな夜中に、誰だろう……?」

 腰を浮かせて立ち上がった新八に、は肩をすくめて答えた。

「きっと、私の電話の相手よ」

 玄関に立っていたのは、真選組の鬼副長・土方だった。

「夜分にすまねぇな」

 と、眉間に深い皺を刻み、眠そうに瞼をしょぼつかせて言うので、新八はなんだか気の毒になって憐みの眼差しを向ける。

「こちらこそ、なんか、すいません」
「土方さん。早かったですね」

 はいたっていつも通りの態度に戻って、にこにこと微笑みながら土方を出迎えた。今にも火を噴きだしてもおかしくないほど不機嫌な顔をした土方に、こんなに気安く話しかけられる人間はそうはいまい。

「お前、なんだよその格好は」

 土方はが銀時の着物を着ているのを見て、反吐を吐きそうな顔をした。

「借りたんですよ。電話で言ったでしょう、汚れちゃったって」
「どんな汚し方したんだよ。ほら、頼まれてたやつ」
「ありがとうございます」
 
 土方は風呂敷包みを持っていて、がそれを開くと新しい着物が出てきた。

「着替えてくるので、ちょっと待っててくださいね」

 と言って、は和室の襖を閉めようとする。その向こうに銀時の寝姿を見つけた土方は獣のように毛を逆立てたが、の笑顔はあっさり和室の向こうに消えた。

「あの、銀さんすっかり酔いつぶれて爆睡してるので、大丈夫だと思いますよ」

 見かねた新八が、できるだけ穏やか口調で言う。それでも土方はやっぱり、面白くなさそうだった。





 そうして、は土方とふたりで万事屋を後にした。

 草木も眠る丑三つ時。眠らない町、かぶき町はまだまだネオンがきらびやかに輝いているけれど、屯所に近づくにつれ、夜の静寂がゆっくりと降りてくる。ふたりは柳の木がゆるい風に揺れる堀沿いを歩いていた。夜の水の匂いがしっとりと空気を濡らして、静かな水音がふたりの足音さえも掻き消してしまいそうだった。

「お手間お掛けして、すいませんでした」

 土方の斜め後ろを歩きながら、は静かに言った。その腕には濡れたままの着物を風呂敷に包んで抱えている。

「まったくな」

 土方はあくびを噛み殺しながら答えた。眠っていたところをの電話に叩き起こされ、こんな真夜中に屯所から出てきたのだ。土方は気づいていないようだが、後頭部の髪の毛が一束、おかしな方向にはねている。

 は笑いを噛み殺しながらもう一度謝った。

「本当にごめんなさい」
「まぁ、お前が誰と飲もうが別にいいけどよ」
「よかった、怒られるかと思ったわ」
「怒るって何を?」
「今夜は銀さんとふたりで飲んでたから。土方さん、妬くかなと思って」

 からかいまじりの言葉を聞いて、土方は鋭い視線でを睨む。

「妬いてねぇよ。俺はただ夜中に叩き起こされたのが気に食わねぇだけだ。明日も早いっつーのによ」
「それじゃ、何にも連絡しないで朝帰りした方が良かった?」

 土方は苦虫を噛み潰したような顔をして黙り込んだ。それはそれで、面白くないらしかった。

「だから、土方さんに来て欲しかったの。喧嘩したくなかったから」
「あぁ、そうかよ」

 土方は吐き捨てるように言って、懐から煙草を取り出して咥えると、一度歩みを止めて火を着けた。そのタイミングでちょうど土方の隣に並んだは、ふと思いついて土方の腕に自分の腕を絡めてみた。

 土方はぎょっとして身を引こうとする。

「何だよ、急に?」
「いけませんか?」
「侍が女と腕組んで歩けるかよ」
「誰も見てませんよ。今だけ、ね?」

 確かに、こんな真夜中に往来を歩いているの人間はふたり以外にいない。土方は仕方なく、の腕を引いて歩き出した。歩幅の小さなに合わせると、のらりくらりと散歩をするような足取りになる。ぽっかり浮かんだ月と心許ない星空を見上げて煙を吐く。静かすぎて、むしろ耳が痛いような錯覚でも起こしそうだった。

「眼鏡に聞いたぞ。万事屋の野郎にげろ吐かれたってな」
「そうなのよ。急に吐くからびっくりしちゃったわ」
「びっくりしちゃったじゃねぇよ、お前は。もう少し腹立てたって罰は当たらねぇんじゃねぇの?」
「まぁでも、着物は洗ってもらったし」
「ったく、そんなお人好しな性格してっと、いつか損するぜ」
「そうかしら?」
「きっとな」
「でも、損をするとしてもそれが銀さんのためになるなら、私はそれでもいいわ」

 土方はのつむじを見下ろした。

 土方の腕に手を絡めて体を寄せて歩くはどことなく頼りなかった。酒の酔いが残っているのだろうか、それにしては足取りはしっかりしているし顔色も悪くはない。

 ちょうど、街灯の下を通りかかったとき、は顎を上げて土方を見た。

「ねぇ、土方さん」
「ん?」
「私、今すごく、幸せなの」

 土方は驚いて、危うく唇に咥えた煙草を落としかけた。

「……あぁ、そうなの?」
「そう、すごく、今が幸せ」

 が何を言いたいのか分からなくて、土方は呆気に取られてしまう。幸せ、と口ではそう言いながら、は深刻な顔をしてほんの少しの笑みも浮かべてはいなかった。

「だから、銀さんのために少しくらい損するのなんか、何でもないの。土方さんには、面白くないことかもしれないけど」

 は土方の腕に額をすり寄せて、ようやく土方の耳に届くほどの声で呟いた。

 土方は一息大きく煙草を吸い、長く長く白い煙を吐き出す。そして、まだ長さの残るそれを地面に落として下駄で踏みつぶして火を消した。

 が何をそんなに深刻にとらえて、大袈裟な覚悟を決めようとしているのか、土方には分からなかった。

 確かに、銀時のためにが身銭を切るのは土方にとって面白いことではないが、が自分で稼いだ金をどう使おうが、それは土方にはあずかり知らないことだし、そこに首を突っ込む義理も責任もない。

 今夜、と銀時はふたりでどんな話をしたのだろう。土方にはいくら想像力を逞しくしてもきっと分からないことだ。子どもの頃から、と銀時がどういう時間を共に過ごして、どんな関係を築いてきたのか、その一切を土方は知らない。一から十まで言葉にして説明されても、きっと本質の一割も理解できはしないだろう。

 土方が決して踏み込むことのできない場所が、そこにはある。けれど、踏み込むことができないからこそ、というひとりの人間を土方は愛おしいと思うのだ。月は、その裏側を決して地球上からは見ることはできない。だからこそ美しい。そんな風に、絶対に触れられない、手に入れることができないからこそ、愛すことのできるものがある。

「ごめんなさい。変なこと言って」

 はそう言って顔を上げると、いつもの通りに人好きのする顔をして微笑んだ。
 土方もそれに付き合って、ほんの少しだけ口の端を持ち上げてみせた。

「気ぃ済んだか?」
「はい」
「帰るか」
「はい」

 こうして、真夜中の道をふたり並んで歩くことができているのは、銀時ではなく、土方だ。そんな小さな優越感だけを心のよりどころにして、土方は再びの腕を引いた。





「おい、親父ぃ。熱燗もう一丁!」

 すでにへべれけに酔っぱらった銀時は、空になったお猪口を振りながらカウンターの向こうの店主に向かって言った。

 隣に座ったはそれを制することもなくつまみを口に運びながら、背中を猫のように丸めてカウンターに突っ伏している銀時を見やった。

 今夜一緒に呑まないかと誘ったのはの方だし、元々代金は持つつもりだったから、銀時がいくら飲み食いしようとよかったが、今夜の銀時は少しおかしかった。つまみもそこそこに酒ばかり飲んで、まるで悪酔いするために飲んでいるように見えた。

「飲みすぎなんじゃない? 大丈夫? 銀さん」
「こんなの飲んだうちに入らねぇよ」

 銀時は身を乗り出して、充血した目でを睨んだ。酒臭い息に背をのけ反らせて、はその肩を押し返した。

「止めてよ、もう。お酒臭い」

 ひっく、としゃっくりをひとつして、銀時はカウンターに頬杖をつき胡乱な目をしてを見る。

「なんっだよ。冷てぇな。酒ならお前も飲んでんじゃん」
「銀さんみたいな無茶な飲み方してないわよ。どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」
「何で分かんの?」
「そんなやけっぱちな飲み方するから」
「飲まなきゃやってられねぇ日もあんだよ。なぁ、あんたもそうだろ?」

 銀時はそう言って、ちょうど追加の熱燗を持ってきた店主を困らせた。

「話くらい聞くけど、どうしたの?」
「……みっともねぇから話すのやだよ」
「銀さんのみっともないところなら、もうとっくに両手で数えきれないほど知ってるわよ」

 銀時は手酌で酒を注いで、あっという間にお猪口を空にした。の声は届いているのかいないのか、手ごたえが感じられなくて、は銀時の横顔をしつこく睨み付けた。

 やがて、銀時は夢を見るような眼差しで明後日の方向を見ながら呟いた。

「……あいつは、何で俺を殺しに来ないんだろな」

 殺しに、という物騒な言葉に、は息を飲む。

「あいつって誰のこと?」
「今までだってチャンスはいくらでもあったはずなんだ。なのに、夢にばっかり現れて現実にはちっとも顔見せやがらねぇ。呪われてんのかとさえ思うよ。まぁ、呪いの藁人形とかあいつには似合いだな」
「銀さん、誰のこと話してるの?」

 口ではそう言いながら、はもうなんとなく分かっていた。藁人形が似合いそうな銀時と共通の知人は、思いつく限りひとりしかいなかった。

「どんな夢なの?」
「別に、どうってことねぇよ。昔の記憶さ、繰り返し繰り返し、いつも同じ夢を見る」
「同じ夢を見るのが辛いの」
「そうだな、何回見ても慣れやしねぇし、忘れられるんなら忘れて楽になりてぇよ」
「でも、忘れられないから辛いんでしょう」
「あぁ、そうだな」
「どんな夢か話してくれたら、少しは楽になるかもよ?」

 が水を向けた途端、銀時は酒を口に含んで黙り込んだ。どうやら全く話す気はなさそうだった。

 銀時は心ここにあらずといった様子で、まるでお猪口の中を泳ぐ魚の影を追ってでもいるように、視線が酒に縫い留められて動かない。暗く澱んで、充血した目。顔色は赤と青の混ざった嫌な色をしていて、酒に上気して首や耳まで赤い。

 よほど嫌な夢を見るのだろうなと、は思う。浴びるように酒を飲まねばやっていられないほど、嫌な夢なのだろう。少しでも手助けができればいいと思うのに、銀時は頑固だから、一度話さないと決めたらどんな理由を並べてもきっと、口を開いてはくれない。

 は自分の無力さに息苦しくなったが、銀時がこの調子では軽口も叩けない。気休めにでもなればと、銀時の肩を優しく叩いてやる。

「……あいつは、どうして俺のことを殺しに来ないんだろうな」

 同じことを、銀時はもう一度呟いて自嘲的に笑った。

「今だったら、間違いなくひとひねりだぜ。あいつだって俺が酒に弱いこと知らねぇわけじゃねぇんだし」
「酔った相手に斬りかかるなんてことは、武士道精神に反するからじゃない?」
「天人と手を組んで国を転覆させようとする奴が武士道を語るかよ」
「難しいことは分からないけど、銀さんの思う通りにことが進むのは面白くないんじゃないかしら。きっと、銀さんを驚かすような突拍子もない方法を考えてるのよ。何せ寺子屋に道場破りにくるような人なのよ」
「あぁ、確かにあいつは昔から非常識な奴だったよな」
「だからきっと、それは今じゃないわ」

 銀時はカウンターに突っ伏すと、力のない声で「そうか」と嘆いた。その腕がお猪口にぶつかって倒れそうになったので、は慌てて手を伸ばして支えてやった。

 本当は、こんなことを言いたくはなかった。

 高杉が銀時を殺しに来る、そんなこと、冗談でも口にしたくはない。けれど銀時があんまり情けないことを言うからには、きっとそれ相応の理由があるのだろう。

 普段は神楽や新八に向かって説教臭いおべんちゃらを並べ立てていい気になっているというのに、今夜の弱気なことといったらなんなのだ。もしかしたら、自分の弱いところをふたりには見られたくなくて、万事屋を出てきたかったのかもしれない。今夜のの誘いは、銀時にとって渡りに船、葱を背負って歩いてきた鴨だったわけだ。

 は酒をくいと飲み干すと、銀時のためにもう一度酒を注文した。

「おじさん、もうひとつ熱燗ちょうだい。それから、卵焼きも。甘くしてね」

 甘い、という言葉に反応して、銀時はのそりと起き上がると、だんだんとむくんできた瞼を苦心して持ち上げた。

「大丈夫? 銀さん。卵焼き食べる?」
「おぉ。っつーかまだ全然飲み足りねぇし」
「はいはい。付き合うわ」

 どうせ、飲みすぎて銀時が痛い目に合うことは分かっていた。それでも、には銀時を労わってやる術を他に思いつけなかった。

 飲みすぎは体に毒だと正論をぶったり、悩みがあるなら話せと無理矢理口を割らせることは、にはできない。飲まなきゃやっていられない日もあるし、誰にも触れて欲しくない傷跡をだって抱えている。

 きっと、誰だって、そうだ。

 だからこそ、ただ隣に座って一緒にお酒を飲んで、酔っぱらった時の失敗ならどんなことでも許し合える友を持つことは、この上ない幸福なのだ。は、本当に言いたいことは胸の奥にしまい込んで、いつも通りに笑って銀時に酌をした。

 どうして高杉は銀時を殺しに来ないのか。
 その理由を、は確信をもって言える。

 それをして松陽が喜ばないことを、松陽を大好きだったあの高杉晋助が、できるはずはない。






20170911