悪夢を見た。


いつも見るやつだ。けれど、いつも同じじゃない。
何もかもを失う夢。目の前からひとつずつ、大切なものが消えていく夢。傷つけられ、痛めつけられ、聞くに堪えない悲鳴を上げて命の火を消していくのを、見ていることしかできない夢。

見ろ。
目を逸らすな。
これがお前のせいで失われた者たちだ。
その悲痛の叫びを聞け。

目を逸らせない。瞼が下りない。逃げられない。

お前のせいで。
お前のせいで。
後悔しろ。
懺悔しろ。

目の前であいつの首が飛ぶ。
その刀を握っているのは、他の誰でもなく俺の手だ。
体が真っ二つに裂けるような痛みが走る。
その痛みがあまりにも生々しくて、これが夢なのか現実なのか分からなくなる。
いや、これは夢だ、分かっている。けれど、同時に現実であることも分かっている。

俺の手は刀を手放さない。
手放せない。
すがりつけるものはそれしかない。
けれど、その手を離さないと夢が終わらない。

離せ、手を。
この手を離せ。





 渾身の力をふりしぼって夢から覚めると、全力疾走をした直後のように息が上がっていた。体中汗だくで気持ちが悪くて頭がガンガンする。

 そうだ、昨夜は朝方まで長谷川さんとふたりで飲み歩いていたのだ。この頭痛と吐き気は二日酔いのせいだ。何も恐ろしいことは起こっていない。あれはただの夢だ、現実じゃない。

 そう自分に言い聞かせて、銀時は深呼吸をした。心臓がどうかしてしまったみたいに早鐘を打っていて、耳の奥でどくどくと血潮の流れる音がうるさい。

 動悸が落ち着くまで待ってゆっくりと目を開けた銀時は、途端に目を見張った。

「……なんでいんの?」

 銀時の枕元に正座していたのはだった。毎日そうしているような顔をして、銀時のいちご柄のパンツを手際よくたたんでいた。

「勝手に上がってごめんね。でも、洗濯物が雨に濡れそうだったから」

 言われてみれば、しとしとと静かな水音が聞こえるような気がする。銀時は窓の方に視線を向けようとしたけれど、ずきん、と頭が痛んで顔をしかめた。

「また朝まで飲んでたの?」

 は呆れた顔で笑った。

「なんで分かるんだよ?」
「見れば分かるわ」
「神楽は?」
「私が来たときにはいなかったけど」
「そうか」

 銀時はほっと息を吐いて、静かにまばたきをした。悪夢にうなされるみっともない姿を子どもらには見られたくなかった。

「お水、持ってこようか」

 言いながら、は腰を浮かせる。

 銀時の左手がぴくりと揺れた。

 行かないでほしい。そばを離れないでほしい。その手にすがり付いて引き留めたい。指先がそう訴えるように震えたけれど、腕に力が入らない。

 が部屋を出て襖を閉めるのを見送ってから、銀時はようやく動いた手で手持無沙汰に目をこする。その時はじめて、目尻が涙で濡れていることに気が付いた。

 悪夢にうなされて年甲斐もなく泣いたりするなんて。銀時は自分で自分が嫌になって、袖口で乱暴に涙を拭って深いため息を吐いた。

 何度同じ夢を見ても慣れない。

 自分がどんなに重い罪を犯してきたのかは分かっている。報いを受けろというのなら受ける。死刑を宣告するというのなら、甘んじて受けよう。いっそひと思いに殺してもらえれば楽になれる。消えてしまえるなら、今すぐそうしてほしい。なのに、たったそれだけの望みが叶わない。

 どうして俺はここにいるんだろう。

 銀時は雨粒がガラスを叩く音に耳を澄ませながら、ぼんやりと天井の染みを数えた。じっと見つめていると、それはだんだんと人の顔のように見えてくる。悪夢にうなされる銀時を蔑み嘲っているようで、銀時はぎゅっと目を閉じて雑念を遠くに追いやろうとした。あの悪夢の余韻がまだ枕元に亡霊のように居座っている気がする。ただの染みに蔑まれているような気分になるのはきっとそのせいだ。

 が戻ってきた。盆に、水を満たしたガラスのコップと、なぜかプリンをのせている。

「これ、銀さんの?」
「あぁ」
「本当? 神楽ちゃんのじゃなくて?」
「あいつには酢昆布があるよ」
「そう」

 はぺりりといい音をさせて蓋を開けると、銀時の目の前でプリンを一口頬張った。

「久しぶりに食べると美味しいわね」

 銀時は眉をしかめて、力ない目でを睨んだ。

「おい、俺に持ってきたんじゃねぇのかよ」
「あら、家事代行のお駄賃と思えば格安でしょ」
「頼んでねぇし。すげぇ楽しみに取っといたやつなんだけど」
「まずは水でも飲んだら? 酷い顔よ」

 銀時は意地を張って無理矢理体を起こす。その途端、腹の底から吐き気が湧き上がってきてえづいた。前かがみになって青い顔をしている銀時の背を、は何も言わずにさすってくれた。

 どうにか一口だけ水を飲んで、の手を借りて再び横になった。水を飲んだだけでは頭痛も体の倦怠感もなくならないけれど、気分は少しだけすっきりした。

 が濡れた手拭いで額とこめかみの汗を拭う。二日酔いで寝込んでいるだけだというのに、まるで重病人を看病するようなことまでしてくれる。これが神楽や新八が相手なら、ふたり怖い顔をして、蔑むような目で銀時を足蹴にして、頭に響くような大声で罵られるところだ。

 そうしてくれたらいっそ適当な言いわけをして言い返すこともできるのに。何にも言わずに優しされるとむしろ苦しい。そんなもの受け取る資格なんかないと、惨めな気持ちがして胸が詰まった。

「ごめんな」

 銀時はぶっきらぼうに呟いた。はプリンをひと匙口に運びながら首をかしげた。

「ん?」
「せっかく、遊びにきたのによ」
「いいのよ。私も急に来ちゃったし。実を言うとね、傘を持ってなかったから、雨宿りさせてくれないかと思って来てみただけだしね」

 はおどけた顔で笑った。ちょこんと肩をすくませて小首をかしげるさまがかわいらしくて、つられて銀時も少しだけ笑った。

 相手に気をつかわせない冗談をこんなにうまく言えるようになっただなんて、すっかりいい女になったものだ。子どもの頃のは何かあるとすぐに泣く弱々しい少女だったことを銀時は覚えている。懐かしかった。

「プリン、一口食べる?」
「いいの?」

 はプリンを掬ったスプーンを横になったままの銀時の口元まで差し出してくる。少しだけ顎を上げて口を開けた銀時の目の前で、鈍く銀色に光るスプーンは放物線を描いての唇に飛んでいった。紅も引いていない薄い桃色の唇が、いたずらっぽく笑った。

「やっぱりあーげない」
「んだよ、ガキか」
「これ美味しいわね。はじめて食べたかも、このメーカー」
「あったりまえだろ、銀さんのセレクトに間違いはねぇんだよ」
「わぁ、さすが」

 は大袈裟なくらい美味しい美味しいと言いながら、結局ひとりでプリンを平らげた。一口くらい分けてくれたって良かったじゃないかと本気で悔しがっている自分に気がついて、我ながら食い意地が張っていると銀時は苦笑した。

 笑えたことに、そして、やっと悪夢の気配が去ったことにほっとする。呼吸が楽になる。生き返るような心地がする。その代わり、頭痛と吐き気がますます酷くなってきて、銀時は深く布団に沈み込むようにぐったりした。

「悪夢はね、見るだけましなのよ」

 が言った。
 まるで、明日の空模様を心配するような、何気ない言い方だった。

 銀時が吐き気を堪えながら見上げたの顔に暗い影が落ちて見えたのは、雨に澱んだ空が作る影のせいだけではなかっただろう。銀時は雨の具合を確認するふりをしてから目を逸らした。

「本当に辛いことほど、夢にさえ見ないものよ」
「へぇ、そうなの」
「あ、その言い方。さては信じてないでしょ」

 銀時は答えられなかった。

 あの夢以上に辛いことなど、本当にあるのだろうか。もしもあるならたまったものではない。

 は銀時の額に手を置いて、まるで母親が小さな子どもにするように頭を撫でた。朝方まで飲み歩いて、風呂にも入らず眠ってしまったせいで銀時の白い髪は汗と皮脂でべたべたに汚れている。けれどは、そんなことはちっとも気にしていないようだった。

 の冷たい指が銀時の頭皮に触れる。なかなか治まらない頭痛に、それは湿布のようによく効いた。

 心地良くて、銀時は目を閉じた。雨の音だけがしとしとと絶え間なく聞こえていた。

「雨、まだ止まないか?」
「そうね。もう少し雨宿りしていっていい?」
「あぁ、いいよ」

 神楽と新八が帰ってきたら、またいつものようにどやされるのに違いない。それはあいつらの不器用な優しさだと思って甘んじて受け取ることにして、今だけはのまっすぐな優しさに甘えよう。

 どうしようもなく頭が痛くて気持ちが悪い。体に力が入らない。起き上がれない。

 今度こそゆっくり、悪夢にうなされずに眠りたい。





 銀時は気を失うように再び眠ってしまった。は猫の毛並みを撫でるように、いつまでも銀時の白髪を撫で続けた。

 この頭の中でどんな悪夢が再生されているのか、には知る由もなかったけれど、銀時が涙を流すなんてよっぽど恐ろしい夢を見たのだろう。

 も子どもの頃はよく悪夢にうなされた。どんな夢だったのかはもうほとんど憶えていないけれど、真夜中に泣きながら飛び起きたときの、真っ暗な闇にひとりぼっちで取り残されたような、体が芯からしびれるような寂しさはどうしても忘れられない。

 そんな時はいつも、松陽が優しく頭を撫でてくれ、なんの躊躇もなく布団の中に招き入れてくれたものだった。あの深くて温かい、まるで母親のような優しさにどれほど救われたことだろう。

 銀時がもし、が子どもの頃に感じたあの寂しさに今でも捕らわれているのなら、松陽のような温かさを銀時に届けてやりたかった。

 銀時の頭の中に巣食う悪いものが、いつかきっと消えてなくなってしまいますように。

 はそう祈らずにはいられなかった。










20180701