燃えるような夕暮れの空の下、松陽と出会って、まださほど経っていなかった頃。



 街道沿いにある小さな茶屋で、俺と松陽は足を休めることにした。まだ本格的な夏には早い時期だったけれど、その日は日差しが強く、笠をかぶっていても汗ばむほどの陽気だった。

 井戸で手と顔を洗い、街道に面した長椅子に腰掛け、店の女将が出してくれたよく冷えた茶を飲んでいた。喉をころころ転がり落ちるその冷たい飲みものは、火照った体をすんなりと冷やして、俺は息継ぎも忘れてあっという間に飲み干してしまった。自分では気づいていなかったが、松陽の後について長いこと歩き倒して、くたびれていた。

 松陽はそんな俺を、静かに微笑みながら見下ろしていた。その視線。

 太陽を背にして少し陰った表情に、俺がそれまで見たこともない静かで強いものが見えた気がした。なぜか背筋がぞっとしたのは、首の後ろから汗の粒がしたたり落ちたせいだったろうか。

「前から、聞こうと思ってたんだけどよ」
「なんですか?」
「お前は、なんであちこちふらふらしてんだ? ずっとこうしてんのか? どこか行くところがあんのか? どっから来たんだ?」

 松陽という男は、流れ者だった。どこからやってきたのかも湧かなかったし、どこかへ行くあてがあるという風でもなかった。村から町へ、町から村へ転々とする日々を続けてきたのだと、何かの話のついでに聞いたばかりだった。

 ある晩は、民家の厩に一夜の宿を求め、その次の夜は野宿だったりする。農作業を手伝うために数日間ある村に滞在したこともあるが、その仕事が終わればあっさりと追い出された。別の村では、見つけた空き家に定住を望んだこともあるが、厳しい顔を下地主に認められず叶わなかった。そういうことは何度もあったらしい。よそ者はどこへ行っても嫌われる。

 その上、俺のような小汚い子どもを拾ったりしては、ますます誰からも疎まれるようになっただろう。一体何をしたくてそんなことをしているのか、一度聞いてみたかったのだ。

「質問が多いですねぇ」

 松陽は声を上げて笑うと、何事もなかったような顔をして静かに茶を一口飲んだ。

「学び舎を作りたいんですよ」
「まなびや?」
「そう。手習いや、剣術を教えたいと思ってます。今はそのための場所を探しているところです」
「それでこんなあちこちふらふらしてんのか」
「まぁ、理由のひとつですね」
「他にもあんのか?」
「まぁ、それはおいおい」
「おいおいってなんだよ?」
「はっはっは、君はせっかちですねぇ」

 と、松陽はまた笑った。ごまかされたような気がして悔しくて、何か言い返してやろうと思ったが、ちょうどその時、茶屋のおかみが高い声を上げて店の奥から出てきた。

 盆の上に、木を削って作った椀がふたつと木の箸が乗っていて、かすかに湯気を立てている。のぞきこむと、赤茶色の汁の中に丸い餅がふたつ浮いていた。

「さぁ、いただきましょう」

 そう言って、松陽は餅を口に頬張った。

 見よう見真似で、同じように餅を口に放り込んでみた。その瞬間、しみじみと甘い味が口の中一杯に広がった。柔らかく熱い餅は噛み応えがあって、噛めば噛むほど汁の甘さが口の中全部に溢れて、たまらない味がした。夢中で口を動かした。

 ふと見ると、松陽が肩を震わせながら口を手で隠すようにしていた。松陽が笑っていないところを見たことはなかったけれど、こんな風にどうしようもなさそうに笑うところを見るのは初めてだった。

「なんだよ?」

 口いっぱいに餅を頬張ったまましゃべったら、口から汁に混ざっていた茶色い粒を口から飛んだ。それを見て、松陽は「ぶっ」と吹き出して声を上げて笑った。

「? なんなんだよ?」
「いえいえ、そんなに気に入りましたか? お汁粉」
「おしるこっていうのか、これ」
「そうですよ」

 甘い汁がからんだ餅の弾力のある噛み応えのあるのを、俺はひたすら口を動かして味わった。松陽と話をするのももどかしくなるくらい夢中だった。

「おいしいですねぇ」

 と、松陽はしみじみと言った。

 おいしい。

 そうか、この感じをおいしいというのか。甘い味が口の中一杯に広がって、弾力のある餅を噛みしめるたびにその甘い味がどんどん深みを増していく、この感じ。

「あぁ、おいしい」

 生まれて初めてその言葉を口にした瞬間、目の前の景色が、色彩が、音を立てて迫ってくるような気がした。

 街道沿いに広がる水田と森と空。濃い緑と、どこまでも広がる青。白く眩しい太陽。その熱で温まった水と土のむせ返るような匂い。風に吹かれて海原のように揺れる草。俺の隣に座って、一緒にお汁粉を頬張っている松陽の気の抜けた笑い顔。

 そして、口の中にひろがる甘い味。
 
 ふたりでおいしい、おいしいと言い合いながら、俺達はあっという間にそれを平らげた。

 松陽と一緒にいればこういうものをまた食べられるのかと思い、あっちにふらふらこっちにふらふらする生活も悪くないなと思った。





 とろとろにとけたつぶあん、丸々とした白玉に、たっぷり絞ったホイップクリームと抹茶アイス。

「はぁ~、うめぇ~」

 銀さんはうっとりと目を閉じてしみじみと言った。ぎゅっと握りしめた左手が感動のあまりふるふると震えているのが全く芝居じみていて、私はこらえきれずに吹き出してしまった。

「大袈裟ねぇ」
「よく働いた後のこれは格別なんだよ」
「本当に、今日はありがとうね。助かったわ」
「荷物持ちでよければいつでも引き受けてやるよ」
「そう言ってもらえるとありがたいけど、本当にそれだけでよかったの?」
「いいんだよ、俺はこれで」

 買い物に付き合わせたお礼にファミレスで何でもご馳走してあげると言ったのに、銀さんが注文したのはこの白玉クリームあんみつだけだった。せっかくなのだから、ごはんのおかわり自由な定食とか、ステーキとか、普段なかなか食べられないものを頼めばいいのに。

 銀さんは長細いスプーンで白玉にホイップクリームとあんこを絡ませ、ゆっくりと口に運ぶ。目を閉じたまま口の中のものを噛みしめて、体全部の神経を集中させてその味を噛みしめている。

 銀さんの甘いもの好きは今に始まったことじゃないけれど、いつでも、初めてそれを食べた子どものように感動する。その顔はまるで悟りを開いた大仏様のようで、おかしくておかしくて仕方がなかった。

「本当、好きよねぇ」

 半ば呆れながら言うと、銀さんはどこか堂々と答えた。

「そうだよ、お前と会うよりずっと前からな」
「どういう意味よ?」
「別に、深い意味はねぇけど」
「そこまで言うなら話を聞かせてくれるんじゃないの?」
「やだね。話してる間にアイスとけちゃうだろ」
「何よそれ」

 秘密めいて笑う銀さんの目は、目の前にいる私ではなく、もっとどこか遠いところを見ているような気がした。銀さんはときどき、こういう顔をする。ここにいるのに、ここにいない感じ。顔を突き合わせて話をしているのに、本当は私ではない誰かに話しかけているような感じ。秘密を隠していることをほのめかしながら、けれどそのパンドラの箱を開ける気はさらさらないのだと、強くて硬い壁を突き付けられるような感じ。

 こんなときいつも、ずるいなと思う。こんなに人に甘えておきながら、こちらから手を差し伸べようとするとするりと身をかわしてしまうのだから。

 私が感じすぎるのかもしれない。けれど、私はこういう時、裏切られたような気持ちになるのだ。

 どうして今更遠慮なんてすることがあるんだろう。話してくれればいいのに。どんなことでも。何を聞いても、銀さんのこと嫌いになったりしないのに。私は信頼されていないのかしら。こんなに長い付き合いになるのに。

 と、その時。大きな音がして、通りに面したガラス窓を誰かが思い切り叩きつけた。

「あぁ!! 銀さん!! やっと見つけた!!」
「こんなところで何してるアルか!? 銀ちゃんばっかりずるいネ!!」

 新八くんと神楽ちゃんだった。ものすごい形相をして、割れんばかりにガラス窓を平手で叩いている。

「げ、あいつら……!」

 途端に、銀さんは顔を強張らせた。

「なに?」
「何でもねぇよ、さっさと食っちまおうぜ」
「なんか、ものすごく怒ってるけどいいの?」
「いいんだよ。これは俺の労働の糧なんだから」

 銀さんは窓の外のふたりを無視して、口いっぱいにアイスクリームを頬張る。ふたりは窓越しに抗議の声を上げるのを諦め、雄たけびを上げながら走ってレストランの入り口に回りこんでくる。

「こっちに来るみたいよ」
「まじでか」
「もしかして、ふたりと一緒に来なかったのはお礼をひとり占めするため?」
「んなわけねぇだろ、俺がそこまで薄情な人間だと思ってんのか?」
「思ってるけど」
「んだよ、俺とお前のこの長い付き合いでそれはないんじゃないの? 傷つくわー」

 それはこっちのせりふよ。
 この言葉は、ぐっとこらえて飲み込んだ。

 銀さんは分かっていない。私がどれだけ銀さんのことを思っているか。その心の重い扉が開くのをどれほど心待ちにしているか。何度ごまかされても、裏切られても、それでもあきらめずにいる理由。

 店内に飛び込んできた新八くんと神楽ちゃんが、銀さんをめがけて一直線に走ってくるのが見える。私はそっと座り位置を変えて、ふたりのために走路を確保する。

「銀さーん!!!」

 と、飛び掛かってきたふたりを受け止めきれず、銀さんは変な声を上げてテーブルの下に押し倒された。

 食べかけのパフェのグラスが倒れそうになる。私はそっとそれを支えてあげたけれど、ふたりにもみくちゃにされる銀さんのことは放っておくことにした。

 銀さん。あなたはもっと、自分のしていることの意味を自覚すべきよ。私が愛想をつかす前に、どうか気づいてね。

 今、目の前にいる私をいつかきちんと、まっすぐに見つめてね。










20180511