裏腹と憂鬱のアスター











銀時は台所で夕飯の支度をしているの後ろ姿を眺めていた。
着物の袖をたすき掛けにして、わざわざ持参したらしい白いエプロンを付けている。露になった肘から先の腕の白さが妙に生々しい。結った髪の下から覗くうなじが白く、首は細い。
だからどうでもいいのだけれど、この状況ははたからみたらまるで新婚夫婦だ。

神楽を志村家へ追い払って大正解だと、銀時は思う。こんな所にいたらきっと居心地悪くて仕方がないだろう。いや、奴はうまい飯にありつければ他のことはどうでもいいか。もしかして、そういう状況に陥った場合一番居心地悪い思いをするのは自分だろうか。想像してみて、銀時はぞっとした。婚約者に初めて連れ子を会わせるバツ一の男の緊張は、もしかしたらこういうものなんだろうか。あぁなんて恐ろしい。

まぁ、相手がだから、どうでもいいけれど。

「銀さん? どうかした?」

おたま片手に振り向いたは、不思議そうな顔をして肩越しに首を傾げる。
銀時は妄想を振り払って苦笑した。

「別に。なんでもねぇよ」

「そう。もうすぐ出来るからちょっと待ってね」

子どもみたいな顔で、は笑う。





が今夜一晩泊めて欲しいと万事屋にやってきたのは夕方の遅い時間だった。気の早い家族は食卓を囲み始める頃、やんちゃな子どもはようやく家路につく頃。万事屋は新八がそろそろ自宅へ帰ろうかとなんやかややっていた時だった。

「で、どうしてそういう話になる?」

と、銀時がソファにふんぞり返って問う。はその向かいのソファでわざとらしく頬に手を添えて応えた。

「実はちょっとした事故で私の家が全壊してしまって。今夜寝るところがないのよ」

「いや全壊って何? 一体何したら家全壊するんだよ。ていうかお前の家って真選組の屯所だろ?」

の職業は真選組の家政婦なのだ。屯所の敷地内にある離れがの家で、銀時は外からその小さな庵のような建物を見たことがあった。

「ちょっと流れ弾が当たっちゃってね。一瞬で木っ端微塵よ」

「流れ弾が飛んでるのか真選組の屯所は。戦場か?」

「ある条件が揃うと稀にね。まぁ離れが壊れたのは偶然だったと思うんだけど。というわけで今晩はよろしく」

「勝手に決めるな。家にはお子ちゃまのガキが二人もいるから駄目!」

銀時が言う「ガキ」とは、万事屋に寄生している志村新八と神楽だ。ついでにペットの定春。
二人と一匹は、銀時の昔ながらの知り合いだというに興味を持って散々騒ぎ立てていたけれど、銀時が無理矢理に家の外に追い出した。
からすれば彼らがいるならいるで構わないのだろうけれど、銀時はそうもいかない。理由はには分からないだろう。だってとてもくだらない理由だから。

「あら、いい年の女の子一人真夜中のかぶき町に放り出すつもり? そんなことして良心痛めるの銀さんよ?」

「大丈夫だ。ホテル一泊分くらいの稼ぎあるだろうお前なら。俺と違って」

「確かにね。でも今日は銀さんの所に来たかったのよ。昔馴染みとお話したいと思うのがそんなに悪い?」

「だからお前人の話を聞け。見ただろあの乳臭いガキ二人と巨大犬を。あの子達思春期でいろいろ敏感だから。保護者としての責任があるんだからね? 俺には」

「別にお互いそういう関係じゃないじゃない。考え方が嫌らしいわよ、銀さん。ていうか犬は関係ないでしょう」

「誤解の種は蒔かないことに決めてんだよ、俺は。後が面倒だから」

銀時は鼻をほじったり髪を掻き上げたり、無意味にだらしのない態度をとる。そうすることでなんとかを追い出そうとしたのだ。は賢いけれど引き際は心得ている人間だと銀時は知っているので、これで万事解決する予定だった。そうなってもらわなければならなかった。

はそれを見て、これが最終手段だと言わんばかりにきれいに笑った。

「分かったわ。それじゃ報酬は、材料費こっち持ちの夕食でいかが? 日持ちがするように筑前煮とか大量に作ってあげるわよ?」

「よぉし買い出しでも行くかぁ!」

は、背筋を伸ばしてしゃっきり立ち上がった銀時の目がぎらりと輝いたのを見る。そして心中でガッツポーズを取った。銀時は単純で、食と金には人の何倍もがめついのだと、はちゃんと知っているのである。





鱒の味噌煮、筑前煮、ほうれん草のおひたし白胡麻和え、湯豆腐、わかめとあさりの味噌汁、具沢山の炊き込み御飯、それから酒とつまみ。

二人前としては明らかに多すぎる料理を目の前にしても、銀時は少しも臆さず凄い早さで箸を動かしていた。何しろこんなに豪華で贅沢な食事は数ヶ月ぶりだ。食事の向こうにの呆れた表情が見えたけれど、そんなことに構ってはいられない。

「そんなにがっつかなくてもご飯は逃げないわよ」

と、は苦笑しながら呟いた。

「こちとらまともに飯食うのも久しぶりなもんでね。それに食える時に食っとかねぇといざという時困るんだよ」

「どれだけひもじいのよ。それで真面目に働いてるの?」

「働いてるじゃねぇか。この飯が立派な証拠だ」

「あぁ、そうでしたね。はいはい」

会話の合間、茶碗と箸の影からを盗み見た銀時は、何とはなしに死んだ魚みたいな目を細める。
すっと背筋を伸ばして静かに食事をするは、田舎育ちとは思えない品格を漂わせて清廉だ。それは松陽の教えの賜物だと銀時は知っている。思い出して切なくなるとか、そんな繊細な心は持ち合わせていないけれど、感傷的になってしまうのは仕方のないことだ。今ここには神楽も新八もいないのだから。

「しっかし、お前。ずいぶん料理の腕上げたよな。昔は魚焼けば焦がすような奴だったのによ」

まるで照れ隠しみたいに言って、銀時は鱒の煮物にかぶりつく。は皿の上で身を解してから上品に口元に箸を運んで言った。

「褒めても何も出ないわよ?」

「いやいや実際大した物だよ。うちの家政婦になってくれたら文句ねぇのに」

「ならないわよ。どうせお給料出ないんでしょ?」

「お前が居れば家事手伝いの仕事依頼受けて荒稼ぎ出来んだろーが」

「結局銀さんが楽しようとしてるだけじゃない」

「真撰組の家政婦なんかやってるよりずっと楽に生活できるとは思うぜ?」

「冗談はよしてよ。私が今の仕事辞めるなんて、ありえないわ」

言って、はかちりと小さな音を立てて、箸をテーブルの上に戻した。見るともう既にの皿は綺麗に空になっている。
いつの間に、と銀時は驚いた。いつも何も、会話の合間の他に間はないのだけれど、駆け引きみたいな会話と美味な食事に夢中になっていた銀時はに対する気配りをすっかり忘れてしまっていたらしい。

「私はここに羽を休めに来たつもりなのよ? 分かってるでしょ」

銀時はついそのおしゃべりな口を噤んでしまう。は苦笑していた。にこりと、気遣うみたいに。箸の動きはそのままで、銀時はその妙な笑顔に見入ってしまう。

「だから意地悪い事言わないでね」

はまだ開けていなかった酒瓶を手に取って、蓋を開けて銀時の湯飲みに注いだ。そうしてから自分用に用意しておいた御猪口に注ぐ。

湯飲みを差し出されて、銀時は無意識に、口に炊き込みご飯を詰め込んだまま酒を喉の奥に落とした。は小鳥が水を啄ばむような仕草で御猪口に口をつける。
松陽から学んだ女性らしさを自在に操っているは、昔とは違った美しさを身に着けていて酷く新鮮に銀時の目に映った。の指が御猪口の縁を細やかに撫でた。

「家政婦の仕事ってお休みがないの。そういう所に気遣いが出来ない人がとても多いのよね、真撰組って。部屋が壊れちゃったのはたまたまだったけど、前々からちょっとくらい肩の力抜けたらなって思ってたから、今日はそういう意味で運がよかったのかも」

「お前、真撰組の副長と仲いいとか言ってなかったか? 休暇くらい申請出来ねぇのかよ?」

「出来ないわね」

即答されて、銀時は小さく肩を落とした。妙な苦笑はそのまま、は平気な顔で酷な事実を簡単に告げる。なんて技だと、銀時は思う。この技はおそらく成人してから会得したものだろう。銀時が若かりし頃、共に過ごした日々の思い出の中に、こんな風に笑うはいない。

何のためだろう。何のために、は銀時の前でこんな風に笑うのだろう。昔馴染みの、気遣いなど必要のない間柄で。
それを思ったら無性に腹が立って、銀時は湯飲みの酒を一気に干した。

「だったら、尚更そんな所辞めちまえよ。明らかに労働法違反じゃねぇか」

「その分お給料はいいわよ。家賃も要らないから手取りも多いし……」

「それでお前に心の平安はあるのか? このストレス社会で生き抜いていけるのか? ただのチョコレートの売り文句になるくらいだぞ? 酷い世の中なんだぞ今は」

と、ふいに、は吐息を零すようにしてくすりと笑った。気遣いが欠片になって落ちた。笑顔にあった妙な気配が消えた気がした。銀時は、口を三日月の形に綺麗に弓なりにして笑うの表情を見る。こんな風に笑う、昔のを思い出して重ねた。

「銀さんがそんなに食い下がってくるなんて、珍しいわね」

軽く首を傾げて見せたを観察するように見つめていた銀時は、その言葉を聞いてつい気持ちを萎えさせた。

死んだ魚みたいに細い目をさらに細めて、絶えず動かし続けていた箸をやっと止める。口の中の物を飲み込んだから突然腹が膨れた気がした。これはもうこれ以上食べられそうにないなと思う。だから箸と茶碗をテーブルに置いて、仰け反るようにソファに背を預けた。から目を逸らさないまま、逸らすものかと思いながら。

酒を自分で注いで、もう一度大きく一息で飲み干して、銀時は力を抜いて笑った。

「そりゃ、心配にもなるだろ。突然家壊されるような所に住んでるなんて聞いたらな」

「まぁそうね。普通はそうよね」

「親切なアドバイスは素直に受け取った方が賢いと思うぜ? 俺は」

「だから万事屋に来いって?」

馬鹿馬鹿しいと、は銀時に向かってでではなく呟いた。

最初はただの冗談だったのに、どうして引っ込みがつかなくなってしまったんだろうと、銀時は後悔する。がずっと平気な顔で笑っているからだ。家を壊された、寝るところがなくなった、それだけで結構な一大事だというのに、それでも何でもないことのように、その日の内に笑い話にしてしまっているからだ。

「こんなに安定した職を私が手放せる訳ないじゃない」

「……そうだろうなぁ」

「分かってるくせに」

「あぁ。知ってるよ」

は御猪口をテーブルに置いて、膝に手をつきながら銀時と同じようにソファに背を預ける。少しだけ顎を持ち上げて、少しだけ目を細めて。銀時の考えなどお見通しだと言わんばかりに、はわざとらしく笑っていた。

「本当、今日はどうしたの? 銀さんらしくないわね」

「そうだなぁ。……そうかもな」

相槌を打ってから、言葉を選んだ。今日はすこぶる調子が悪いようだ。の後姿で新婚夫婦妄想をしてみたり、昔を思い出して感傷的になってみたり、に言葉で圧し負けてしまったり。何ということだ。情けないったらありゃしない。おかしくて、自然と口元に笑みが上った。少しだけ、眠いなと思った。

「あぁあ、今日は疲れてるのかもなぁ。朝から結野アナのお天気占い最下位だったし、昼間はジャンプ買いに行かなきゃならなかったし、神楽追い出すのも一苦労だったし」

「いろいろ関係ない話が混ざってるわよ。銀さん」

「いいんだよ、別に理由はなんでも。疲れてるもんは疲れてんだから」

「それじゃもう休む?」

銀時の答えを待たずには立ち上がると、まるで当たり前みたいにくるりとテーブルを回り込んで銀時の隣にちょこんと座った。その一連の流れをじっと見つめ続けていた銀時は、とっさに言葉が出ずに黙り込んでしまう。

昔のままの笑顔の。美しく精錬なそれに、そこらの男はころりと落ちてしまうのだろう。
けれどがこんな風に昔のまま素直に笑うのは銀時の前でだけだ。そしてそれは銀時にとって色恋の意味にはならない。

「……何やってんのお前?」

「だって銀さんが寂しそうだから」

「だから?」

「添い寝でもしてあげようかと思って。昔はよくしてたじゃない」

「いや俺をいくつだと思ってんだよ。三十路目前のおっさんだぞ? 糖尿のほうも危機的状態だし、もしかしたらそろそろ毛根も力を失ってくる頃だぞ?」

「自分で言ってて虚しくならないそれ?」

はそう言いながら銀時のふわふわした銀髪に触れる。指先にその毛先を絡ませるみたいに優しく、動物の毛並みを撫でるみたいに優しく。

銀時は身動きがとれず、ただきょとんと目を丸くした。は戸惑った銀時の心をすっかり分かっているみたいな顔をしていて、銀時は尚更訳が分からなくなる。の手が銀時の後頭部に触れて、そのまま自分の膝の上に引き倒された。自然を見上げる形になった銀時は苦笑した。
ずっと微笑んでいたの瞼が眠そうに面映く伏せられている。それを見たら睡魔が溶けるように体を包んだ気がした。髪に触れているの手が暖かかった。

「ったく。どこの風俗嬢だよお前は。俺なんかたぶらかして何が楽しいんだ?」

「あら、今はもう辞めたわよ。誰かに膝貸すなんて何年振りかも分かんないわ」

「いいのか? 俺このまま寝るぞ。朝までっつーか昼まで起きねぇぞ。足痺れて歩けなくなっても知らねぇぞ?」

「大丈夫よ。私もこのまま寝るし」

唐突な膝枕も、感傷的な気分で与えられた物であればそれは慰めだ。とろりとした暖かさに包まれながら、銀時はの笑顔に幕を下ろす。瞼の裏の闇は蛍光灯の灯りを通して穏やかな色を映している。

「おやすみなさい、銀さん。朝っていうか昼御飯はだし巻き卵作ってあげる」

「……あぁ、楽しみにしてる」

がひとつため息をついて眠りに落ちる気配を感じて、銀時はそれきり意識を手放した。溶けるように、沈むように、酷く心地よく眠りに落ちた。





その日見た夢は、目覚めた瞬間に忘れてしまった。
差し出された阿弥陀くじを引いたらそれは貧乏くじで、これから毎朝毎晩木の葉をおかずに食事をしなければならない事になった。飼っている兎の好物はキャベツの葉で、ペットの方がいいものを食べていることに腹は立ったけれど阿弥陀くじで決まったことだから仕方がないなと妙に納得したら、今度はその兎に耳を噛み切られた。出血が半端ではなかったので病院へ行ったら、縫合手術をするからといって全身麻酔を打たれて、その麻酔がまるで酒とか甘味みたいに甘い味がしたので、嬉しくて気持ちが良くて、また木の葉を齧った。
くだらない夢だった。だから、忘れてしまった。



20080317