あぁ、間違えた。

は本気でそう思った。何を間違えたかってタイミングだ。

「一体何ヶ月分家賃踏み倒すつもりだい!? いい加減にしなよお前はああぁぁ!!」

「だから!! これから仕事行くとこなんだってええぇぇ!! その家賃稼いでくるからそこをどけこのくそばばああぁぁ!!」

出直した方がいいものか、階段の下では思案をする。あんな盛大な口げんかを繰り広げられていたら話の腰を折るどころか悪い方に巻き込まれてしまうのが関の山だろう。けれど今後の予定を考えるとそうゆっくりもしていられない。

さて、どうしよう、と思ったその時。
の脳天にでかいたらいが降ってきた。何故かは分からないけれどとにかく降ってきた。ありえない音を辺りに響かせながら、音の余韻を遠くの方で聞きながら、は気を失ってしまった。





というわけで、は午後の予定を全て棒に振って、お登勢が経営するスナックの一角を借りて休むことにした。頭に大きなたんこぶが出来てしまったので、大きな氷嚢を頭の上に乗せている。

こうなった原因は銀時とお登勢の家賃取り立てによるケンカなのだけれど、氷嚢と休憩場所を提供してくれたお登勢はとても親切にしてくれたので、はとても複雑な気分だった。銀時は仕事があるからと謝罪もそこそこにいなくなってしまっていた。

「悪かったね、巻き込んじまって」

煙管をふかしながら、お登勢はカウンターの向こう側にいる。はその向かい側に座って、饗されたお冷やを飲んだ。ただの水道水だけれど、無骨な形の氷がからりと鳴って涼しげだ。

「いえ。慣れてますから」

「たらいが降ってくることにかい?」

お登勢は訝しげに目を細める。は気持ちが悪いほど綺麗に笑って付け加える。

「いえ、むしろ砲弾が」

「……あんた仕事何やってんだい?」

「真選組屯所の住み込み家政婦です」

「ずいぶん難儀な職選んだもんだねぇ」

感心しているのか、呆れているのか、おそらく後者だろうが、お登勢は複雑に眉根を寄せた。はあんまりにも予想通りの反応だったのであははっと軽く笑った。少しだけ頭のたんこぶに響いた。

「大変ですけど、やりがいはありますよ」

「そうかい。そりゃいいことだね」

「お登勢さんは? どうして銀さんなんかに部屋貸してるんです? 家賃もちゃんと払えないような人なのに」

「まぁ、いろいろとあってね」

はそこで、銀時とお登勢の出会いの話を聞く。墓地、墓石を挟んでの会話。死に損ないの銀時と、夫を失って間もない頃のお登勢。雪の日。

「今となっちゃ、後悔してるがね」

最後にお登勢はそう言って、長く煙を吐き出した。

にとって、煙草の煙は身近なものだ。屯所には四六時中煙草をくわえて離さない人間が約一名いて、その副流煙を毎日のように吸っているのだから。けれどお登勢のそれは細くしなやかで、彼のそれとは全く違う。吸っている葉っぱ自体が違うのかも知れない。お登勢の煙の香りは、彼のそれとは違って甘く優しい。

「お登勢さんって、案外ロマンチストなんですね」

「こんなばぁさんに言うせりふじゃないね」

「確かにな。そんなしわくちゃのばばぁ褒めても何にもでねぇぞ」

「お前は一言多いんだよ」

帰ってきた銀時に、お登勢は木製のお盆を投げつけてクリーンヒットさせた。ナイスコントロール。

「おかえりなさい、銀さん」

銀時は後ろにひっくり返りそうになるのを何とか堪えて、何か言葉を押し殺した。

そろそろ帰るぞ。送ってくから」

「え? 別にいいわよ。ひとりで帰れるわ。買い物もしていきたいし、」

「いーから。帰るっつってんだろ。さっさと準備しろぉ」

言うだけ言って、銀時は引き戸の外に姿を消した。
どうかしたのかとがお登勢に視線を送ってみる。お登勢は意味深な笑みを含ませて言った。

「今日は帰りなよ。そろそろ痛みも引いただろ?」

「えぇ、まぁ」

「また好きな時においで。次は何か食って行きなよ」

お登勢の笑顔はそれだけで得体の知れない説得力があったので、は黙って従った。今度、誰にも内緒で晩酌でもしに来ようと思った。





「ていうか、何勝手に聞いてンだよお前は」

「銀さんとお登勢さんの馴れ初め」

「気色悪い言い方すんな」

銀時はの買い物に付き合って、銀時がいるからついでにと買いだめされた業務用の調味料とかを背負わされている。はビニール袋一つと紙袋一つ抱えているきりだ。

日が暮れ始めていて、空気が薄くオレンジの光を帯びていた。

「いいじゃない別に。減るもんじゃないし」

「いや減るよ。俺の心の余裕が減るから」

「銀さんともあろう人が何言ってんのよ。どこのか弱い女の子? それ」

「か弱いよ俺。見ろよこの細腕と白髪。これ以上老けこませてくれんなよ」

「確かにお互い老けたわよね。私も最近肩こりがひどくて……」

「いや、それは職業病じゃないの?」

夕方の町は賑やかだ。家へ帰る子ども、夕飯の支度をする主婦、味噌汁の匂い、夕日が落ちる気配。懐かしい景色だ。昔のことを思い出してしまう。銀時もも、きっと同じ風景を思い出していた。

「お互いしんどい生き方してきたみたいだねぇ」

「そーだなぁ」

「帰る家があるって幸せだね。お互いにね」

「そーだなぁ」

銀時は首を捻ってぱきぱき鳴らした。もの凄くいい音がした。



20080206