バ ム セ

『イタリアに行くことになった』
電話の向こうから、翼は神妙な声でそう言った。
「旅行? いいね、お土産買ってきてよ」
私は片手で雑誌をめくりながら話半分に返事をする。今は夜の11時。そろそろお風呂に入って明日の大学の準備をして寝てしまおうかという頃合だったので、彼氏からの電話だというのに随分なおざりになった。
『お前、それ本気で言ってる?』
翼の声が刺を孕む。耳にちくりと刺さるそれを感じて、私は雑誌から目を上げた。
「違うの?」
『お前がそんなに馬鹿だとは思わなかったよ』
「だから、何?」
『少し考えれば分かるだろ? 俺が、イタリアに行く意味』
「意味って……」
電話の向こうで沈黙する翼の顔を思い浮かべて、はっとした。イタリアといえば、欧州サッカーの本場ではないか。
「……もしかして、移籍?」
『気づくのが遅い』
「え、本当に?」
『こんな嘘ついて誰が得するんだよ? 今日はエイプリルフールじゃないんだよ』
「じゃぁ、本当なの」
『本当だよ』
翼が電話の向こうでため息をついた気配がした。私があまりにも鈍いので、ほとほと呆れているらしい。けれど、「イタリアに行く」だなんて遠まわしな言い方をする翼だって悪いじゃない。とはいえ、口喧嘩で翼に勝てる自信はこれっぽっちもなかったので、それは口にしないことに決めた。
「おめでとう。すごいじゃん、イタリアなんて」
『どうも』
「いつ発つの?」
『来週の代表選が終わったら』
「それじゃすぐだね」
『
』
ふいに、耳元で聞こえる声に力がこもった。それは翼が本気で怒ったときの声色にも似ていて、私は何か翼の気に障ることを言ってしまっただろうかと身構えた。
「なに?」
『一緒にイタリアに行かないか?』
「イタリアに?」
『俺の言っている意味、分かるよな?』
「……うん」
『遠征から帰ってきたらまた電話する。じゃあな』
「うん、じゃあまた」
言いたいことだけ言って、翼の方が先に電話を切ったので、携帯電話から流れる無機質な電子音が私の耳を攻撃した。慌ててそれを耳から離して、液晶画面を睨む。来週から代表の遠征があるというから忙しいのかもしれないけれど、いくらなんだってそっけなさすぎる。なんだか面白くなかったので、ソファの上に携帯電話を放り投げて、読みかけの雑誌をめくった。流行の服で着飾ったモデルのスナップ写真を目で追いながら、頭の片隅で翼の言葉を繰り返してみた。
『一緒にイタリアに行かないか?』
イタリアか。翼と一緒に美味しいパスタとピザが食べたいな。それから、映画で見た真実の口や、スペイン階段を見に行きたい。オードリー・ヘップバーンが食べていたジェラートは今でも食べられるのかな。トレビの泉に10円玉を投げ込んでみたいし、コロッセオで……。
そこで、私の思考がフリーズした。イタリア旅行で行きたいところリストは一瞬で白紙に戻り、めくった雑誌のページの視線が釘づけになった。
そこには、雑誌の専属モデルのハワイウェディングが特集されていた。輝く太陽の下で真っ白なドレスを着て幸せそうに笑うカップルと、それを祝福する家族と友人、花と海と真っ白な教会に彩られたフォトグラフ。
翼が言いたかったことって、このことなのじゃないかしら?
私と翼は子どもの頃からの幼馴染で、もう10年来の付き合いになる。恋人同士になったのはちょうど1年程前のことだ。お互い良く知った仲なので、付き合い始めたばかりの恋人同士のように浮き足立つような期間もなく、比較的落ち着いた付き合いをしている。(椎名翼という人と付き合っていて、落ち着いたもなにもないかもしれないけど。)
翼はサッカー、私は大学と、それぞれ忙しくしているので、会う時間はあまり多くない。連絡を取らない日もあるくらいだ。それを知ると同世代の友人はびっくり仰天するけれど、これだけ長い時間を一緒に過ごしてきているので、今更毎日連絡を取りあわなければならないほどの話のネタもないのだ。そういうものだろう。
翼は頼りになった。私はあまり人前に立つことは好きじゃないし、物静かな性格をしていると自負しているけれど、翼は違う。自ら先頭に立ってリーダーシップを発揮できるし、喧嘩も強い。売られた喧嘩は自分に不利益が及ばない限りは買うし、絶対に勝つという自信もあって、実際にそうできる実力もある。
私と翼は、全く違う。だからこそ惹かれあったのかもしれない。
私は大学受験に失敗した。第一志望の大学に落ちたのだ。滑り止めに受けた第二志望の大学からは合格通知が届いたのでそこへ進学することに決めたのだけれど、その時の落ち込み方は半端ではなかった。3日間部屋に引きこもって食事も取らなかった。両親や姉や友人が心配して、あの手この手で私を慰めてくれた。甘いお菓子をご馳走してくれたり、ひたすら優しい言葉をかけてくれたり、私は全部落ちたから浪人決定とか、自虐的なネタを振舞ってくれる友人もいた。
そんな中で、翼だけはちっとも私に優しくしてくれなかった。いつものマシンガントークでネチネチと私を責めつづけ、私の弱った心をずたずたに傷つけた。私は赤ちゃんに戻ったように大声を上げて泣いた。一晩中だ。けれど、翌朝にはすっかり元の私に戻って、両親と姉と友人たちを安心させてあげることができた。
私を本気で叱ってくれるのは、翼ただひとりだけだ。私は翼のそういうところを尊敬していて、そして好きになった。
大学の入学式の前日、私は翼に告白した。
「翼の彼女になりたい」
翼はそれを聞いて、
「やっとその気になったか」
としたり顔で笑って、私をぎゅっと抱きしめた。
弱い私を、愛をもって叱ってくれる人。強くたくましく、私を支えてくれる翼。ずっと私のそばにいて欲しかった。
揃いのスーツを着て、日本代表メンバーが遠征地へ飛び立った。空港に集まった報道陣やファンに見送られ、カメラのフラッシュを浴びる様子はさながらハリウッドスター来日を思わせる。この世代の日本代表はとびきり人気が高い。その一端を担う翼は、サングラスをかけ、少し伸びた襟足をひとつに縛っていた。
「椎名選手! 移籍についてひとこと!」
報道陣が大声を上げるけれど、翼はカメラに一瞥も寄越さず、搭乗ゲートに姿を消した。
どこのスポーツニュースも、翼のイタリア移籍をトップに上げた。テレビも新聞もその話題で持ちきりだった。
「すごいわね、翼くん」
母親が何か期待に満ちた視線を向けながらそういったけれど、私はあえてそれを無視した。考え事に忙しくて、それどころではなかった。
翼は本当に私と結婚したいのだろうか。もしそうなら、いつからそんなことを考えていたのだろう。今までずっと一緒にいたけれど、いつから? 恋人になった時にはもう考えていた? だから、「やっと」なんて言ったの? だったらどうして、今まで一言も言わなかったの?
私はまだ大学生で、結婚なんかできる余裕はない。今私は将来の目標のために大学で勉強していて、それを止めてイタリアにいくだなんて、そんなの無茶な話だ。翼がそれをわかっていないはずはないのに、どうして今、私にプロポーズなんかするの? 大学を卒業するまであと3年もある。翼はそれまで待つつもり? けれど、私のやりたい仕事はイタリアではできないし、それは翼も分かっているはずだ。
ねぇ、翼。ちゃんと話してよ。テレビ越しに翼の応援はできるけれど、そんなに遠いところにいたら、何を考えているのかさっぱり分からないよ。
翼はセンターバックとしてフル出場し、マンオブザマッチに選ばれてインタビューを受けた。対戦相手の攻撃を尽く防ぎ、縦横無尽の活躍を見せたからだ。
インタビュアーが「イタリア移籍に弾みがつきましたね」と笑い混じりに聞くと、翼は少しだけ顔をほころばせ「まぁ、そうかもしれませんね」と得意げに言った。テレビの中で。
翼が突然私の住むアパートにやってきたのは、代表戦が終わった3日後の夜のことだった。移籍の準備もあるだろうに、貴重な時間を割いて私の優先順位を繰り上げてくれたのだろうということはすぐに分かった。それなのに、私の口をついて出たのはため息だった。
「来るなら連絡してよ」
「俺がわざわざ時間作って来てやったって言うのに、なんだよ? その態度」
翼は目を細めて強気に笑った。あぁ、いけない。翼を怒らせたいわけじゃないのに。もっと他に言うことがあるでしょう。「試合、お疲れさま」とか、「移籍の準備は進んでる?」とか……。
「とりあえず、何か飲む?」
そうじゃなくて。
「おう」
私はもやもやした気持ちを抱えたままキッチンに立ってやかんをコンロにかけた。翼はテーブルの上に所狭しと広がったノートパソコンや教科書、図書館の本、資料のコピーの山を見下ろしながら、やっと鞄を肩から下ろした。
「勉強してたのか?」
「うん。ゼミの課題とか、いろいろあって……。あ、コーヒーしかないんだけど、大丈夫?」
「挽いたやつ?」
「うん」
翼は所在無さげにソファに座って、私の部屋をぐるりと見回した。翼がここに来るのは初めてではないけれど、どちらかというと、私が翼の部屋に行くほうが多かったから、珍しいのだろう。私は翼の部屋のどこになにがあるかほとんどを把握しているけれど、翼はそうじゃない。
時間をかけてコーヒーを入れながら、翼に言わなくちゃならないことを頭の中で整理しようとしたけれど全然うまくいかなかった。中途半端な状態で止まっている勉強の続きが気になって思考が中断されてしまう。
「相変わらず真面目だな。花の女子大生って言ったら、もうちょっと夜遊びしたりするもんじゃないのか?」
翼が教科書をぱらぱらとめくりながらぼやいた。私はそれを片耳で聞きながら、苦笑いをした。
「勉強するために大学に来たんだしね」
「もしかして友達いないの?」
「さすがに友達はいるよ」
「ならいいけど」
翼ってば保護者みたいないこと言って、と思ったけれど、口には出さなかった。翼は保護者じゃなくて、私の彼氏だ。昔からずっと一緒にいて、頼りになるお兄ちゃんみたいに思っていたこともあるけれど、今はそうじゃない。そうじゃない。
「試合、お疲れさま」
マグカップに注いだコーヒーを手渡しながら、やっと言おうと思っていたことを口にできた。
「見てた?」
「見てたよ。実家で、お母さんと一緒に」
「てっきり、勉強にかまけて見てないのかと思ってた」
「そんなことしないよ」
翼の隣に腰を下ろして、横目で翼を観察する。よく使い込まれたジーンズと、ブイネックのTシャツ。高価そうな腕時計、指輪。手の甲に浮かび上がった青い血管や腕のラインが、いつの間にかとてもたくましくなっている。
「……イタリアにはいつ発つの?」
「明後日」
「準備で忙しいんじゃないの?」
「いや、そうでもないよ。細かいことは代理人がやってくれるし、俺は最低限、体ひとつあればいいわけだしね」
「ふぅん」
次の言葉が見つからなくて、それをごまかすためにコーヒーを一口口に含んだ。
翼に聞きたいことや言いたいことはたくさんあるはずで、それは胸の中でもやもやと形にならないままたゆたっている。翼はすぐにイタリアに行ってしまう。こんなふうにふたりでゆっくりと話をする機会なんてもうないかもしれないのに、ちっとも考えがまとまらない。
「玲から預かってきたんだけどさ」
そう言って、翼が鞄から取り出したのは、1冊のアルバムだった。
「何?」
「実家の片付けしてたら出てきたんだってさ。お前にって」
アルバムを開くと、まだ小さな子どもの私が、まだ小さな子どもの翼と並んで、ピースサインをしていた。その後ろでは、翼のお母さんや私の両親が、まだ白髪や皺の少ない顔で笑っていた。
「懐かしい……。小学生くらいかな?」
「たぶんな。夏に毎年キャンプに行ってただろ? その時のだろうって」
「あ、これ見て。私が好きだったぬいぐるみ。覚えてる?」
「それキャンプにまで持ってきてたな、そういえば」
「だってこの子いないと眠れなかったんだもん」
「名前、なんだっけ?」
「バムセ」
「あぁ、そうだ。言いにくい名前だったからすっかり忘れてた」
「かわいいでしょ。どこ行っちゃったんだろうな、私のバムセ。まだ実家にあるかな?」
「とっくに捨てたんじゃねぇの?」
「そんな覚えないもん。どこかにはあると思うんだけどな……」
「お前が捨ててなくても、親がどうしてるかなんて分かんねぇぞ」
「もう、なんでそんな風に言うの」
ふと顔を上げると、翼の顔が存外近くにあって、驚きのあまり息が詰まった。翼もアルバムを覗き込んで私の方に身を乗り出していたらしい。写真に夢中になるあまり、全く気がつかなかった。
翼の長いまつげが、瞬きをした瞬間にひらりと揺れる。それがとても綺麗で、私はついため息をついた。ため息が翼の前髪を揺らして、翼が私の目を見た。翼の瞳に私の顔が映る。私は今、満たされていた。翼の肩と私の肩が触れていて、もう二度と離れ離れになりはしない。翼。子どもの頃、あの子なしでは眠れなかったぬいぐるみみたいに、つかず離れずそばにいて、同じベッドの中で眠りたかった。
「
」
「翼」
重なった唇から、同じコーヒーの香りがした。
翼がイタリアに発つ日、空港まで見送りに行った。翼の家族や、友人や、チームメイトや翼のファンも来ていた。ゆっくり話をしている暇はなさそうだったけれど、皆が気を使って、私と翼をふたりきりにしてくれた。カメラを構えたマスコミ関係者らしい人もいたけれど、無視することにした。
今日、絶対に言わなければならないことがあった。
「私、イタリアにはいかない」
翼は驚いた顔はしなかった。
「そうだろうと思ったよ」
「そうなの?」
「電話でも、お前の反応おかしかったしな。あの時「うん」って答えてたけど、絶対に俺の言った意味分かってなかっただろ?」
「実は、イタリア旅行の妄想とかしてた……」
「だろうと思ったよ」
翼は呆れたように笑った。それから、目を細めて私の顔を見ると、静かにため息をついた。
「他に好きな奴でもできたか?」
「違うよ。そんなんじゃない」
「じゃぁ、何?」
「……いろいろ理由はあるけど。私はまだ大学生だし、将来の夢があって、それは日本にいなくちゃ叶えられない夢だもの。でも、翼もそれを分かってないはずないから、一緒に行こうっていうからには、それ相応の覚悟はあるんだろうなって、思った。そうでしょ?」
「お前にしちゃいい答えだな」
「翼のこと好きだよ。でも、翼といると甘えちゃう。甘えて、結局自分がだめになる気がする。私はそういう自分がすごく嫌いなの。翼に頼るばっかりじゃ、私はこれ以上成長できない」
子どもの頃、大好きなぬいぐるみの友達がいないと眠れなかった。いつの間にかいなくなってしまったけれど、私の大切な友達のバムセ。今は、翼がいるから大丈夫だった。翼が甘えさせてくれて、支えてくれて、頼らせてくれたから。同じベッドで、一緒に眠ってくれたから。
バムセが私の元を去ったように、翼が私の元を去る時がやってきたのだ。それは、今だ。
「だから、別れよう。翼」
翼は悲しそうな顔も、悔しそうな顔もしなかった。ただ、じっと私の目を見ていた。
「この俺を振るなんて、お前もえらくなったもんだな」
「もう大人だからね」
「そうかよ。じゃぁ、しょうがないな」
そろそろ時間だった。翼はキャリーバッグの取っ手を握り直して、搭乗ゲートを振り返る。
「最後に、これだけは覚えとけよ」
翼は突然、私の頭をぐしゃぐしゃと力いっぱい撫でた。まるで小さな子供にするみたいに。
「
は全然、だめなんかじゃないよ。俺が惚れた女なんだから。ちゃんと自信持て」
私はぼさぼさの頭でぽかんと立ち尽くし、笑いながら後ろ手に手を振って搭乗ゲートに吸い込まれていく翼の後ろ姿を眺めていた。その内、胸の奥から何かが湧き上がるように襲ってきて、堪えきれず、その場にしゃがみこんでわんわんと泣いた。大学受験に失敗して、翼に怒鳴られたあの日みたいに。でも、あの日と同じなら、明日になったら私はきっと元気になって、けろりとした顔で笑えるだろう。
翼。私の好きな人。本当はずっとそばにいて支えて欲しいけれど、私はもう大人だから。子どものころ無くしちゃったバムセには言えなかった言葉も、今ならちゃんと言えるのよ。
翼。さようなら。ありがとう。大好きよ。

20150803
(企画「on the journey」参加作品)