こんな生活を始めてどれくらい経つだろう。週末ごとに実家に帰って、選抜の練習に参加して、すぐに東京に戻って桜上水へ通う。言葉で言えば簡単なことだ。けれど並大抵の体力と神経と度胸がなくちゃこんな事はできないと思う。実際自分にそれがあるのかと問われれば、……たぶんあると答えるだろう。これ以上自分に似合わない言葉はないともちろん自覚している。けれどそう表現せざるを得ないのだ。この3つの要素以上に強く感じていることもないわけではない。でもそれはあまりに自分と次元の違う言葉だと思われているだろうから口にはしない。

「すいません。隣、いいですか?」

夜行バスに乗り込んで出発時間を待っていた時、ふいに声をかけられて視線を上げる。立っていたのはひとりの女だった。年の頃はよく分からない。大人びた中学生にも見えるし、はたまた童顔の大学生にも見える。

「かまへんよ、どうぞ」

愛想笑いで答えると、女は軽く会釈をして席に着く。荷物はトートバック一つと小さなポシェット一つだけだった。トートバックは足下に置いてポシェットは膝の上にちょこんと置かれた。

「荷物、上げなくてえぇの?」

頭上の棚を指さして問うと、女は首を振って丁寧に笑う。

「少ないから。大丈夫」

「そ、ならえぇけど」

その時バスが動き出して、電子音のアナウンスが入った。それからタイミングを逃して、それっきり二人とも黙り込んだ。
シゲは窓の外を流れる夜景を無感情に眺め、女は眠っているのかどうか分からないわざとらしい表情で目を閉じていた。
女が口を開いたのは、周りの乗客がみんな寝静まってしまった頃、真夜中も二時を過ぎた頃だ。

「……ねぇ、起きてる?」

女に肩をつつかれ、浅い眠りの中にいたシゲはすぐに振り向いた。暗闇で女の顔はよく見えなかったけれど、あまりよろしくない理由で話しかけられたことは何となく理解できて、頭上の電灯のスイッチに手を伸ばす。すると、女が少し青白い顔で苦笑しているのが見えた。

「どないしたん? 酔った?」

「……うん、みたい。酔い止めとか持ってない?」

「オレはそういうの無縁やしなぁ……。とりあえず、席変わってみる?」

「ごめん。お願い」

そうして女と席を交換して、自分は通路側の席へ座り直した。女は背もたれにぐっともたれかかって、青い顔でため息をついている。もしかしたら、相当な時間我慢していたのかも知れない。

「窓、少しなら開けてかまへんのとちゃう?」

「ううん。寒いでしょ。周りの人起こしたら悪いし」

「飲み物とかは?」

「実は忘れてきちゃってね」

苦笑しながら女は「バカよね」とそれらしく付け加えた。その顔色を見ている限りあまり笑っていられる状況じゃない気がする。もし吐いたりとかしたら迷惑を被るのは他でもない自分だ。

「……ほな、これどうぞ」

シゲは自分の荷物の中から、中途半端に減ったミネラルウォーターのペットボトルをとりだした。女は意外そうに目を丸くして、シゲとペットボトルを交互に見たけれど、慌てて両手をぱたぱたと振った。

「いいよ。それ君のでしょ」

「別に遠慮せんといていいよ」

「でも……」

「えぇって」

言い合いをしているのバカらしくなったから、眼前にぐっとボトルを押しつけた。そうしてやっと女はそれを受け取って、ほんの少しだけ口に含んだ。それをすぐに返そうとしてきたから、しばらく持っとけと釘を刺した。

「ごめんね、こんな夜中に」

「かまへんよ。寝る場所なんて他にギョーサンあるし」

「どこ? それ」

「授業中とか」

「君、高校生?」

「中学生」

「えぇ!? 嘘、見えない!」

一応言っておくが、この会話はあくまで小声で交わされたものである。二人ともそれくらいの常識はちゃんと持ち合わせている。

「失礼な奴やな。そんな老けて見えんの? オレ」

「老けてるとかそういうことじゃなくて……、最近の中学は金髪解禁になってんの?」

「こないなことするあほあんまおらへんと思うけど」

「あぁ、そう」

女はふいに脱力して、変な笑顔を浮かべてため息をつきながら背もたれをわずかに滑った。取り残された髪がくしゃりと後頭部で散らばる。けれど女はそれを気にした風もなく、明かりの少なくなった外の景色に目をやる。黒いガラスに映った女の顔にはどこか疲れの色がある。

「寝とったら? 着いたら起こしたるよ?」

シゲがぼそりと言うと、女は視線を動かさずに答える。

「こんな時間に目が覚めてすぐ寝直せないわよ。そんなに器用じゃないの」

「酔ってても?」

「酔ってても」

そう言われてしまうと、自分だけさっさと寝直すのはちょっと薄情な気がした。だからシゲも目を開けたまま、けれど口は閉じてじっとしていた。時折、女がシゲの渡したペットボトルに口を付ける気配がして、そのたびにシゲは女に目をやった。ガラスに映る女はいつ見ても同じ姿勢、同じ目線で、少しだけ息をしているのかどうか疑いたくなった。けれどペットボトルの水は確実に減っているからそんなことはまずない。

バスの安っぽいオレンジ色の電灯の下、窓の外を過ぎゆく暗闇に映る女の顔。なんだかとても不思議な空間に投げ出されてしまったような奇妙な感覚がした。限られた色彩、動かない主人公。それだけのつまらない映画を見ているような気分だ。バスのエンジン音はフィルムが回る機械音。周りの人間は微動だにしない鑑賞者。外の世界から切り離された箱の中の夢。明かりが消えるとみんな外へ放り出される。明かり一つがそのきっかけなのだ。それだけが人の視界と心をこんなにも左右する。シゲが座るこの席は、中途半端に明かりの届く最前列の席だ。一番見えにくい席なのに見栄を張って意気揚々とそこに座った子供になったような気分だった。



翌朝早く京都について、女と二人バスから降りた。いつの間にか眠ってしまっていたらしいシゲは、女に起こされるまで爆睡していた。ちなみに女の方は、結局一睡もできなかったと白い顔で愚痴っていた。

二人、白い息を吐きながら駅まで別れを告げた。もう二度と会うことはないと分かっているので、かえって後腐れがなかった。

けれどもしも、いつか彼女と再び出会えたら。まず始めに名前を聞こう。そして空白の時間を埋めるための会話をして、その時の二人の現在を報告し合おう。B級映画のクライマックスは、そのくらいのわざとらしさがきっとちょうどいい。

あまりにロマンチックな空想はシゲの脳裏で泡になって消えた。



20070915