「渋沢さん。コーヒー淹れるけど飲む?」
大きな背中に声をかけると、低く落ち着いた声で渋沢さんは答えてくれる。心が和む優しい笑顔をおまけにつけて。
「あぁ、頼むよ」
お揃いのコーヒーカップはふたつ並べると割れたハート形がくっつくデザインで、使うたびに照れ臭くなるから本当は食器棚にしまっておきたいのだけれど、これは渋沢さんの年の離れた妹弟がプレゼントしてくれたペアカップだ。渋沢さんは家族を何より大切にする人なので、それが大の大人の男の持ち物としてふさわしいとはお世辞にも言えない代物でも決してぞんざいに扱ったりしない。そこが渋沢さんのとてもいいところ。
リビングに飾ってあるウェディングドレスとタキシードを着た二体のクマのぬいぐるみに、胸のあたりをくすぐられるようなこそばゆさを感じながら丁寧にコーヒーを淹れる。とくとくと、ケトルから流れるお湯の音は心臓の鼓動の音によく似ていると思う。
「どうぞ」
ソファでくつろぐ渋沢さんの前にカップを置くと、渋沢さんは私の目を見つめ返して微笑んだ。
「ありがとう」
渋沢さんの膝の上には雑誌がぺらりと乗っていて、その表紙には渋沢さんの汗が光る勇ましい顔がアップで写っている。試合中ゴールマウスを守る鬼気迫る表情は迫力満点で、私の隣で穏やかに微笑んでいる人と同一人物とは思えないほどだ。隣から覗き込むと、ドイツで活躍する日本人選手を特集した記事を読んでいたようで、中学生の頃からよく知っているふたりが並んで笑顔を浮かべている写真が見えた。
「風祭くんと天城くん」
「うん」
渋沢さんは雑誌を傾けて私にも記事が見えやすいようにしてくれる。
「随分トレーニングしてるみたいだ。去年の代表合宿で会ったときより体つきがしっかりしてる」
「本当。次に会うのが楽しみね」
「今度の合宿に合わせてもうじき帰ってくるはずだよ」
「もうそんな時期?」
「あぁ、そうだ。せっかくだから、合宿の前に食事会でも開こうか?」
「え?」
「みんなも誘ってさ。だめ?」
渋沢さんはコーヒーを飲みながら私を見下ろして、面白そうに目を細める。そのからかうようなまなざしに照れ臭くなって、慌ててコーヒーを口に含んだ。
「そんな嫌そうな顔することないだろ」
「嫌なんて思ってない。会うの楽しみだって言ったじゃない」
「じゃぁどうしてそんなむくれた顔するんだよ?」
渋沢さんの指が、膨れた私のほっぺたをつつく。子ども扱いされたようで悔しくて渋沢さんを睨んでみるけれど、爽やかな笑顔でかわされてしまって余計に悔しい。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれないと分からないよ」
悔しい気持ちを心の奥に押し込めて、私は渋沢さんの大きな肩にもたれかかった。渋沢さんは黙って私を受け止めて、私が何か言うのをじっと待っていてくれる。たっぷりのミルクと合わさってクリーム色をしたコーヒーを見下ろして、胸の中でからまっている糸をほぐしていくように言葉を探す。
風祭くんと天城くんと会うのは本当に久しぶりで、普段はテレビや雑誌の中でしか顔を見ることができないから、直に会ってゆっくり話ができたらいいなと思う。ドイツでの面白い話を聞かせてくれるだろうし、思い出話に花も咲くだろう。きっと楽しい食事会になる。そうだ、ふたりの家族も一緒に招待したらどうだろう。ふたりには年の近い子どももいるし、賑やかで楽しい会になるだろう。渋沢さんはみんなを誘って、と言ったから、合宿に参加するメンバーみんなに声をかけるだろう。そうしたら、ちょっとしたパーティだ。
パーティ。
気まずい気持ちを思い出して、胸のあたりでもやもやしたものが渦を巻く。
「ねぇ、風祭くんにも天城くんにも、私たちが結婚したってちゃんと知らせたっけ?」
「あぁ、確か年末にクリスマスカードを送ったって言ってなかった?」
「そうだよね……」
渋沢さんは、困ったような顔をしてちょっと首を傾げてみせる。
「まだ慣れない?」
「うん、やっぱりまだしっくりこないっていうか、なんていうか……」
渋沢さんと結婚式を挙げて入籍を済ませて、もうひと月は経った。渋沢遠子という名前になって、ひと月。私はまだその事実を持て余しているところがある。「渋沢さん」と私を呼ぶ人の声に反応が遅れたりなんてことはざらだし、書類に名前を書くときもうっかり旧姓を記してしまって書き損じを増やしたりしている。
と、いうのはよくある新妻の悩みなんだろうけれど、私が本当に悩んでいるところはそうじゃない。そうじゃないから、解決策が分からなくて悩んでいるのだ。
「あのね、渋沢さん」
「うん」
「風祭くんも天城くんも、私と会ったら、私のこと名前で呼ぶようになると思う?」
「あぁ、たぶんそうじゃないかな?」
中学生の頃から仲良くさせてもらっているみんなのほとんどに、私はずっと名字で呼ばれてきた。「
さん」とか、「
!」とか、大人になってもそれはずっと変わらずに来たのだけれど、渋沢さんと結婚したのだからそうもいかないんじゃないか、という話になった。結婚式の二次会、ホテルのレストランを貸し切って行われたパーティでのことだ。
「別に、呼び方なんてわざわざ変えなくても……。職場では旧姓のままでいるわけだしねぇ」
なんの気なしに呟いた私の言葉は、なぜかみんなの気に障ったらしい。
「いや、それは良くねぇよ! こういうことのけじめはちゃんとつけねぇとな!
!」
鳴海が酒に酔った赤ら顔で言い、
「俺は昔っから名前で呼んでるから変わんないね!
ちゃん!」
と、藤代が笑う。
「でも、
って改めて見るといい名前だよなぁ」
子どもの頃とちっとも変わらない笑顔で若菜が言い、
「これからは
さんって呼んだほうがいいのかな?」
郭くんが品良く微笑み、
「
、
なぁ……」
真田くんは眉根を寄せて言いにくそうに口ごもるので、むしろ謝りたい気持ちになった。困らせてごめんね。
「かわいいはとこの
ちゃんを嫁に出す心境はどうなのよ、翼は?」
黒川が椎名を肘で小突くと、椎名は腕組みをして偉そうに顎を上げる。
「嫁の貰い手があって良かったじゃん。夫のほうが家事が得意で、妻は仕事に邁進できるなんて、現代的でいいんじゃないの。な、
?」
パーティの間、みんなもう、うるさいったらなく、あぁ、私はからかわれているんだなぁと、どこか他人事のように思った。
、
、
……。結婚して名字が変わることは、女の子にとっては夢とロマン溢れる人生の一大事だというのに、あの人達ときたら下の名前ばかり連呼して、これじゃ嫁に行ったんだかどうだか分からない。
今までずっと私のことを名字で呼んでいた人達が、突然名前で呼び出して、なんだかもう、ふわふわした気分でどうにかなってしまいそうだった。渋沢さんとふたり、一生の誓いを立てて結婚したというのに、それがきっかけでみんなとも一気に距離が近くなってしまったような気がして戸惑うばかりだ。
あれ、結婚ってこういうイベントだったっけ?
「そんなに悩むこと?」
と、渋沢さんは心底不思議そうな顔をする。確かに渋沢さんの言うとおりかも知れないけれど、みんなに名前を呼ばれるたびに私のちっちゃな心臓はお湯を湛えたケトルのように震えるのだ。勝手にそうなっちゃうんだから、もう、私にはどうしようもなくって困ってしまう。
「なんだか、初めての人と会った人見知りの子、みたいになってるね」
「……どうせ、人見知りで社交性のない女ですよ、私は」
「そこまで言ってないよ」
むっと唇を尖らせた私を見て、渋沢さんは声をあげて笑った。
「ところで、
。名前といえば俺も言いたいことがあるんだけど?」
私はぎくりと肩を強張らせ、渋沢さんの肩から頭を起こそうとする。けれど、いつも広いゴールマスクを守っている渋沢さんの大きな腕が私の肩を抱いて逃げ場がなくなってしまった。いつもどおりの渋沢さんの笑顔は、凄みを増して少し怖い。
「いつになったら、俺のこと名前で呼んでくれるの?」
「……あの、もう少し、慣れてきたら……」
「それ、もう一年以上前から言ってるよね」
「……あの、でも、ずっとこう呼んでたからくせが抜けなくて……」
「呼んでくれるまで離さないって言ったらどうする?」
「……どきどきするからやめて」
克朗さんと、永遠に呼べなかったらどうしよう。この呼び方が永遠にぴったりこなさそうな恐ろしい予感を抱えたまま、私は渋沢さんの熱い胸を叩いて甘えてみる。
深い笑みをたたえた渋沢さんを見上げて、まだ声にならないその名前を喉の奥で呼んでみた。たぶんそれは渋沢さんにだけ聞こえたのだと思う。渋沢さんは応えるように温かなキスをくれた。
20180226(2017年発行夢本「魔法ビスケットon the paper」再録)