ダーリンミロード






 アラーム音に手を伸ばしながら目を覚ます。持ち上がらないまぶたをこじ開けて時計を見ると、朝の七時だった。暖かく柔らかい布団に包まれて二度寝したい誘惑になんとか抗って体を起こすと、ダブルベッドの半分はもう空っぽだった。
 あぁ、まただ。このパターンもう何回目?
 自己嫌悪で押しつぶされそうになる心をなんとか奮い立たせてベッドから脱出する。洗面所で顔を洗ってから、パジャマを脱いで身支度を整える。クローゼットの一番右端にかけてあるブラウスとスカート、ネックレスはお母さんに就職祝いでもらったガーネット、髪は軽くワックスをつけるだけ。いつもどおりの朝だ。
 リビングの扉を開くと、お味噌汁が煮えるいい匂いがした。

「おはよう。
「おはよう、渋沢さん。また寝坊しちゃった」
「ぎりぎり間に合うだろ。大丈夫だよ」

 キッチンに立つ彼の笑顔が眩しくて、私は目を細めて笑った。

「もうすぐ朝飯できるぞ。座って待っててくれ」
「手伝いますよ」
「じゃぁ、ご飯よそってくれるか?」
「はい」

 食器棚から二人分の茶碗を取り出して、炊飯器の蓋を開ける。ふわりと湯気が立って、炊きたてご飯のいい匂いがした。
 ご飯をよそいながら横目で見ると、渋沢さんは小皿でお味噌汁の味見をしていた。黒のVネックシャツに、ジーンズというシンプルな私服に、くまと女の子のアップリケがついた赤チェックのエプロンをつけているのがアンバランスだったけれど、このスタイルもすっかり板に付いてしまって違和感はない。
 いつもどおりの渋沢さん。私が大好きな、渋沢さん。

「いただきます」

 ご飯と豆腐とわかめの味噌汁、だし巻き卵と鮭、おしんこと納豆。渋沢さんの手料理はいつもとてもきちんとしている。テーブルにきれいに並べられたそれに両手を合わせて、初めにお味噌汁に口をつけると、だしと味噌の香りが鼻の奥に抜けて目が覚めるように美味しかった。

「おいしい」
「良かった。ゆっくり食えよ」

 渋沢さんがにこりと笑う。その穏やかな眼差しにつられて、私も思わず微笑み返す。私は渋沢さんの穏やかな優しさを心から愛していて、こうしてふたりで過ごす朝の時間がとても好きだった。
 ベランダでは渋沢さんが干してくれた洗濯物が柔らかい風に吹かれていて、床に埃一つ落ちていないのは、渋沢さんが朝一番に軽く掃除してくれているからで、渋沢さんが大事に育てている観葉植物はたっぷり水をもらって瑞々しい。ふたりで生活しはじめて随分経つけれど、渋沢さんとの生活はこれ以上ないほど居心地いい。
 けれど一抹の不安もある。
 渋沢さんの左手の薬指には、シルバーリングが光っている。それは私の左手の薬指で光っているものと同じデザインのペアリングだ。
 私たちはもうすぐ結婚する。でも、このまま結婚なんかしていいのかなって、私はちょっとだけ悩んでいる。





「なにそれ? マリッジブルー?」

小島有希に一刀両断されて、私の胸に太い槍がぐさりと刺さった。

「そう簡単に言わなでよ」
「それじゃ他になんて言ったらいいの?」
「そんなの分かんないけど……」
「分かんないなら言い方なんかなんだっていいじゃない」

 そう言って、有希は鳥の照り焼きをぱくりと口に頬張った。
 ここは私が働いているスポーツトレーニングセンターの食堂だ。有希は自主練習のためにここに来ていたらしく、たまたま顔を合わせて相席したのだ。私はカレーうどんをすすりながら苦々しく有希を睨みつける。

「……有希に相談するんじゃなかった」
「えぇ? 何で? 一応結婚の先輩だから相談してくれたんじゃなかったの?」
「そうだけど。なんか、有希にアドバイスなんかもらったら私の心が折れるような気がしてきた」
「失礼しちゃうわね。私ってばこんなに優しくて親切なのに」
「一応、信じておくことにするけどね、それ」
「一応ってなによ」

 そう言って、有希は気持ちよくからりと笑った。
 有希はサバサバした性格をしていて、うじうじとひとりで悩みがちな私とは正反対だ。だからこそふたりで話をしていると新たな発見ができるので、私は有希との友人関係をずっと大切にしている。

「有希ってさ、家事とかちゃんとしてる?」
「まぁ、最低限のことはね。普段はお姑さんがしてくれてるかな」
「それで旦那さんに何か言われたりすることってないの?」
「高井に? そうねぇ……」

 有希はじっと考え込んで、結局首を横に振った。

「特にはないかな。なによ、渋沢さんってそういうこという人なの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「だったらいいじゃない。一体何にそんなに気兼ねしてるの?」
「だって私、何にもできないんだもん」

 自分で言っていて、惨めな気持ちになった。そう、私は本当に何もできない。料理も掃除も洗濯も、観葉植物の世話も早起きもできない。もういい大人なのに、まとも自分の面倒をみることもできない。仕事が終わって夜遅くに家に帰ればもうくたくたで、化粧も落とさずにベッドに倒れこむこともある。渋沢さんがそんな私の面倒を見てくれている、というのが今の生活の状況なのだ。まるで、渋沢さんが私の保護者の役割を担ってくれているようで、私はそれが申し訳なくて仕方がない。

「何にもできないってことはないでしょ」
「できないんだって」
ができないんじゃなくて、渋沢さんができすぎるっていうのもあるんじゃないの? あの人ものすごく完璧主義じゃない」
「まぁ、そういう側面はなくもないけど……」
「渋沢さんが何も言わないなら、それでいいんじゃないの? それがコミュケーション不足から来てるんだったら問題だと思うけどそうじゃないみたいだし、あとはの意識の問題でしょ。それとも女のプライド?」
「そうかなぁ」
「まぁ、私の勝手な推測だけどさ」
「……そうかぁ」

 なんだか考えすぎて訳がわからなくなってきたので、カレーうどんを口いっぱいにすすった。その拍子に汁がはねて、白いブラウスに茶色いしみができてしまう。それを見た有希が、

「でもまぁ、お似合いだと思うわよ。あなたたち」

 と、半ば呆れながら呟いた。





 子どもの頃から、食事にはあまりこだわったことがない。好き嫌いもなかったので、出されたものは文句も言わずになんでも食べた。そういえば聞こえはいいけれど、そこに食べ物がなければそれはそれで我慢もできたのだ。死なない程度にお腹が満たされさえすればそれで良かった。
 大学生の時、一人暮らしをはじめて一ヶ月ほど経ったころ、貧血と栄養失調で倒れたことがある。料理がまるでできなかったので、コンビニの菓子パンとお菓子ばかり食べていたせいだった。保健室の先生に栄養指導を受けさせられて、それで少しはましになったけれど、今でも料理は苦手で、これだけ飲めば生きていく上で必要な栄養は完璧に摂取できる薬が開発されたらいいのになぁと結構本気で思っている。
 渋沢さんは私とは対照的だ。プロのサッカー選手としての自己管理の一環で、栄養やカロリーをしっかり計算した食事をとる。クラブチーム専属の栄養士にアドバイスをもらいながらきちんと自炊するし、結構グルメだ。
 渋沢さんと同棲するようになって、その料理の腕前を間近で見ていると感動した。りんごの皮むきさえおぼつかない私の目の前で、渋沢さんはいとも簡単に筑前煮とかパエリアとかビーフシチューとか作ってしまう。どこの一流シェフですかと褒めたら、渋沢さんは照れくさそうに笑った。

「どうして料理をしようと思ったんですか? 自分でしなくても、家には家族がいるし、管理栄養士さんだっているのに」
「自分の体のことだからな」

 渋沢さんの責任感の強さを、私は心から尊敬している。自分自身にも、家族や、チームにも、そして私にも及ぶそれは、ただただ私を安心させてくれた。





 洗面所でカレーの染みと格闘していたとき、渋沢さんが帰ってきた。

? 何やってるんだ?」

 背中から私の手元を覗き込んで、渋沢さんがそう言った。私はカレーの染みがついたブラウスを握り締めたまま、惨めな気持ちで振り返った。

「……カレーうどんの染みが、取れなくて……」
「あぁ、カレーって落ちにくいんだよな。貸してみろ」
「いや、渋沢さん疲れてるでしょ? それにこれ私の服だし……」
「そんなに強くこすると余計に落ちなくなるぞ。いいから貸してみろって」

 渋沢さんは腕まくりをすると、有無を言わさず私の手からブラウスを奪ってしまった。行き場をなくした私は、浴室の扉に背をついて渋沢さんの手元をじっと見下ろした。
 渋沢さんは手馴れた仕草で染みがついた部分をつまみ、優しく叩くように洗剤をすり込む。

「……慣れてますね」
「弟や妹がいるからな。子どもの頃はよく面倒見てたんだよ」

 渋沢さんの腕に力がこもって筋肉がぐっと浮き立ち、手の甲の血管が膨らむ。よく鍛えられた腕だ。ゴールマウスを守るチームの守護神の手。いつも私を抱きしめてくれる力強い腕。それをじっと見下ろしていると、どんどん惨めな気持ちになってきた。カレーの染み抜きなんかのために渋沢さんの腕を頼らなければならない非力な私。渋沢さんの腕は世界の舞台で戦うためにあるはずなのに。
 どうして私はこんなこともできないんだろう。あんまり情けなくて泣きたくなった。

「元気がないな。何かあったのか?」

 手を止めずに、渋沢さんは言った。
 泣きそうになっているのがバレないようにこっそり鼻をすすったつもりだったけれど、渋沢さんは耳ざとく、すぐにバレてしまった。渋沢さんは子どもにするように私の顔を覗き込んだ。

「どうした? このくらいの染みならちゃんと落ちるから、心配するな。な?」
「すいません、私こんなこともできなくて……」
「こんなことって?」
「カレーの染み抜きも、料理も洗濯も掃除も……。私何もできなくて、渋沢さんに頼ってばっかりで……」

 渋沢さんはきょとんと目を丸くした。

「そんなこと気にしていたのか?」
「そんなことってことないです。もうすぐ結婚するのに、私全然大人になれてなくて、本当にダメで……」


 渋沢さんにさえぎられて、私はぎゅっと口をつぐむ。渋沢さんはブラウスを絞って水気を切ると、ぱんっと音を立ててそれを開いた。カレーの染みはよく目を凝らさなければ分からないほど薄くなっていて、渋沢さんはそこに漂白剤をすり込ませて洗濯機に入れた。

「料理や洗濯や掃除とか、そんなことして欲しくてと結婚するわけじゃないぞ」

 洗濯機のスタートボタンを押すと、水音と一緒に機械音が鳴る。ちょっとだけ騒がしくて、渋沢さんの声が少しだけ聞こえにくくなる。それを分かっていてか、渋沢さんは私の頭に手を置いて体を引き寄せた。

「俺は、仕事に打ち込んで頑張ってるが好きだし、尊敬してるんだよ。を支えたいなと思うし、俺のことも支えて欲しいと思ってる」

 耳元で渋沢さんの声がする。それはごろごろと唸る洗濯機の音にかき消されず、まっすぐに私の鼓膜を震わせた。

「……渋沢さんのことを支えるって、私どうしたらいいの?」
「そのままのでいてくれたらそれでいいよ」
「そのままでいたら、私は結局何もできないまま」
「そんなことないよ。が仕事頑張ってると、俺も頑張らなくちゃって思うし、そういう関係は悪くないなって思ってるよ」
「……本当に? 仕事ばっかりして、全然家事ができない嫁でも恥ずかしくない?」
「そんな訳ないだろう。は俺の自慢だよ」
「こんな私でも、渋沢さんのこと支えられる?」
「もう充分、支えてくれてるよ。あぁ、でも、ひとつだけ頼みがあるんだが……」
「なに?」

 渋沢さんはいたずらっぽく笑うと、私の額に自分の額をくっつけた。

「そろそろ、名前で呼んでくれると嬉しいな」

 渋沢さんの手が、私の首の裏側を撫でる。冷水に冷やされて湿った手のひらが気持ちよくて、その手のひらから爽やかな洗剤の匂いがした。
 私はもうすぐこの人と結婚する。料理をして、掃除をして、洗濯をして、家庭を守るいいお嫁さんにはなれないかもしれない。でも、わたしが好きな渋沢さんは、料理をして、洗濯をして、掃除をして、そのたくましい腕で私を安心させてくれる渋沢さんだ。渋沢さんは私を幸せにしてくれる。だったら私は、渋沢さんが好きになってくれた私のままで、ずっと変わらず彼の傍にいよう。

「克朗さん」

 私は甘やかに彼の名前を呼んで、その胸の中に飛び込んだ。










20151012





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