ゆるゆると時間が流れていた。時計の針が電池が切れかかっているみたいに動きを躊躇っているように見える。止まらないで、止まらないでと祈りながら、頭の片隅では、時間なんか止まってしまえばいいのにと子供みたいに本気で願っている。私は矛盾の塊だ。

?」

気がついたら、練習日誌を書いていた渋沢先輩の手が止まっていた。しまった、時計に集中しすぎてしまっていた。

「なんですか?」

「どうかしたか? ぼんやりして」

「いいえ、別に。なんでもないです」

渋沢先輩の笑顔は穏やかで優しい。思わずほっとしてしまう。同時にぼっと目の前に灯が灯るような緊張が体中に走った。この笑顔をずっと見ていたいのに、今すぐここから逃げ去ってしまいたくもなる。なんてひどい矛盾だろう。

「それじゃ、そろそろ帰るか」

「はい」

二人で窓の戸締まりをして荷物を持つ。先に私が部室を出て、渋沢先輩が扉に鍵をかける。いつもの流れだ。

この季節のこの時間、この場所から見える夕焼けがちょうど見頃になる。薔薇色から橙色に変わる空を独り占めにできるのだ。雲が速い速度で上空を流れていた。



呼ばれて振り向くと、渋沢先輩は片手に鍵を握ったまま、眩しそうに目を細めて遠くの方を見ていた。渋沢先輩もこの夕焼けを独り占めにしているのかもしれない。

「なんですか?」

渋沢先輩の顔が夕焼け色に染まって綺麗だ。見とれてしまう。

「俺と、付き合ってくれないか?」

「……どこへ、ですか?」

「いや、そうじゃなくて……」

眩しそうな顔をしたまま、渋沢先輩は綺麗な顔で笑っていた。

のことが好きなんだ」










シンメトリックな愛の中で











「で、どうしてその答えが『ちょっと待ってもらえませんか』になるわけ?」

彼女の名前は笹原夏名(ささはらかな)という。出席番号の近い友人だ。お節介なところがたまに傷だけれど、いいところもちゃんとある。だからこんなに辛辣な言葉にも腹が立ったことはない。

「だって、とっさで何言っていいか分かんなくて……」

「とっさも何も、好きな人に好きって言ってもらえてどうして迷うの?」

「それは私にもわからない」

「……あ、そう」

呆れられてしまった。そりゃそうだ。こんな矛盾だらけの恋、理解してもらえるとは鼻から思っていなかった。夏名に話したのは自分の記憶と気持ちを整理したかったからだ。私の小さな脳はもう飽和状態で、言葉にして形作らないととても堪えられそうになかった。

窓の外を見る。渋沢先輩がジャージ姿でクラスメートとグラウンドを走っていた。体育の授業中なのだ。
私が夏名と雑談をしても注意を受けないのは自習中だからなのだけれど、昨日までだったらこれがどれだけ幸せな一時間だったか容易に想像がつく。片思いはどんなに幸せな恋だったのだろう。謂われのない切なさは結局自分勝手なものだし、ただ少し渋沢先輩と話ができただけで天に昇るような気持ちになれた。一方通行は平和だ。

願いは叶わないくらいがちょうどいいのかも知れない。こんなに好きで、ずっと一緒にいられたらなんて夢を見ていたのは昨日までのこと。いざ、一緒にいられることになったと言うのに、私はそれを躊躇っている。一緒にいたいのに、いたくない。どうして私の心は矛盾ばかり生むのだろう。

「好きな人に好きになってもらえるって、」

夏名はまるで独り言のように呟いた。夏名も窓の外の体育の授業を見下ろしている。夏名の思い人もそのグラウンドの中にいることを、私はちゃんと知っていた。

「奇跡的に嬉しいことだと思うんだけどな。私は」

「うん」

「……贅沢な悩みだね」

「うん」

「……羨ましいけど、頑張ってよ」

「うん」

二人で熱っぽい目をしながら、課題のプリントそっちのけで恋する乙女の気分に浸っていた。こういうところが片思いのいい所なんだけどな、と思ったけれど、これ以上夏名の神経を逆撫でたくなかったので胸にしまっておくことにした。





「”symmetry”」

「名詞、形容動詞。左右対称であること」

「正解」

試験に備えて英単語の暗唱をしている渋沢と三上を、藤代は複雑な表情で眺めている。勉強なんて赤点を取らない程度にしかやらないのが彼なのである。

「キャプテン、やめてくださいよー。練習終わってすぐそれは無いでしょー」

間宮とか成績に関して落ちこぼれ組に入る連中がうんうんと頷いた。渋沢は苦笑しながらすまん、と謝ったけれど、三上はへっと鼻で笑って憎まれ口を叩く。

「バカにはいい薬になると思ったんだけどな」

「バカバカ言わないでくださいよ、三上先輩!」

「2回も言ってねぇだろバカ代」

「今言ったじゃないですかぁ!」

「おい、その辺しておけ、二人とも。今日は早めに帰ってくれよ」

「え? 何かあるんすか? キャプテン」

「打ち合わせだ。が待ってるんだから、気を遣ってくれよ」

この会話を、部室の外で待機していた私はしっかり聞いていた。打ち合わせの予定なんか無かった。いつも通り、日誌を書く渋沢先輩の隣で一日の雑用のまとめをして、時計の針を気にして、渋沢先輩の横顔に見とれる。そのつもりだった。

告白の返事なんてまだできるわけがないと思っていた。けれど、渋沢先輩が特別に私のことを想ってくれていることが分かる。昨日がきっかけで、境界線だったのだ。今度は私から勇気を出さなければならない。そうしないと、私はきっといつまでも矛盾したままだ。こんな矛盾はもう嫌だった。素直になりたかった。

「待たせて悪かったな」

「いいえ。大丈夫です」

渋沢先輩の手はすらすらと綺麗な文字を綴っている。時間はゆるゆると、頼りなく私の五感を撫でていた。時計が止まってしまいそうだ。私は止まらないでと祈っている。もし時間が止まってしまったら、渋沢先輩に告白の返事ができない。

「あの、先輩」

「なんだ?」

渋沢先輩の優しい笑顔が、いつもよりずっと近くに見えた。それは物理的な問題ではなく、渋沢先輩が私を好きでいてくれているという事実が視野を狭めているのだ。緊張して体が熱くなっているような気がする。けれど、逃げ出したいとはもう思わない。思いたくない。

「昨日の、返事をしたいんです」

たぶん、今日と昨日の私は何一つ変わっていない。矛盾は消えたのではなく、心の隅に押し込めているだけだ。何かきっかけさえあればすぐに私の体中を占拠してしまうかもしれない。渋沢先輩への恋心が勝っている内に、早く、伝えなければならない。矛盾は恋心とシンメトリックになるものだ。昨日という境界線に対しての、左右対称の気持ち。

「私も先輩が好きです」

渋沢先輩は少し目を見開いて、次の瞬間、少し頬を染めながら綺麗に笑った。少し泣き出しそうに瞳を潤ませている、とても幸せそうな表情だった。その幸せを与えてあげられたことが嬉しくて、私も渋沢先輩と同じ笑顔で、渋沢先輩と同じ願いを叶えた。

「私と、付き合ってください」



(O-19 Festival提出作品、御題提供LOVE BIRD)20070823