そんな彼の事情






これは実験だった。試験管の中の透明で柔らかな液体に、薄い桃色の液体を一滴落とす。彼の答えによって、結果は幾通りにもなるはずの実験。

「問題です。最後にふたりで逢ったのはいつだったでしょう?」

『……先月の末』

「それは何日前のことですか?」

『……3週間前』

「私が言いたいことは分かりますか?」

『……悪かったよ。ごめん』

透明で柔らかな液体の中で、桃色の液体は固形になって、まんまるい形を残したまま試験管のそこを転がった。実験は失敗だ。お互いの液体に温度差がありすぎた。

『今度ちゃんと埋め合わせするから』

「そのせりふも聞き飽きたな」

『今どうしてもだめなんだって。本当、忙しくて……』

「理由言ってくれれば私も納得するよ」

『いろいろ片づけたら話すから。……悪い。もう俺行かなきゃならないから』

「……分かった。じゃぁね」

先に電話を切ったのは彼だった。暗い電子音を睨みつけながら、汚い言葉を押し殺しながら、私は途方に暮れる。

最近の彼、水野竜也は妙に冷たい。この電話もどれくらいぶりだか知れないし、メールの返事も3日後に返ってくればいいほうで、完全に無視されてしまうこともざらだ。それでもまだ彼が何をやっているのか分からないわけではない(サッカーに決まっている。それしかない。)ので安心感はあるけれど、こんなことは今までになかったことなので、何をどうしたらいいのかまるで分からなかった。

「竜っちゃん、電話出た?」

携帯電話をぱちんと閉じたら、ちょうど真理子さんがお茶とチーズケーキを盆に乗せてキッチンから戻ってきた。甘い香りが優しく鼻先を撫でていく。幸せの香りだ。
それでも、竜也が残していった実験結果は予想外に大きなショックを与えいったようで、私の気分はなかなか浮上してくれなかった。

「出ましたけど、忙しいから話せないって切られました」

「あらあら。冷たいわね、竜っちゃんったら」

「一体何がそんなに忙しいんだろ。真理子さん聞いてませんか?」

「さぁ?」

真理子さんはテーブルのセッティングをしながら、にこにこ楽しそうに笑っていた。

その傍らには白い木綿のタオルケットが敷いてあって、真理子の第二子である虎治がすやすやと眠っている。まだ生まれて一年も経っていない虎治は桐原家の天使みたいな存在で、そこにいるだけで部屋中に幸福の雪を降らせるのだ。虎治が軽く身じろぎをして右手をぱたりと動かしたのを見て、私も知らず顔がにやけた。虎治は私にとっても天使なのだ。

「よく寝てるわね」

真理子さんは虎治の体を包むように掛けてある毛布を直しながら、心底幸せそうに呟いた。吐息は桃色の淡雪の色をしている。こんな色を私は久しく見た記憶がなかった。近しい色はたった今の実験で見たけれど、それは失敗だったからノーカウントだ。

「こんなかわいい弟がいるんだから、竜也ももっと帰ってくればいいのに」

「そうね、本当にね」

何事にも竜也の話題に立ち返ってしまう私を、真理子さんは少し呆れながら見つめていた。私は竜也が大好きだ。それを真理子さんはちゃんと分かっている。ケンカなんかしたくなかったから、私は竜也を頭ごなしに怒れない。真理子さんもそんなことして欲しいとは思っていないだろう。だから竜也と久しぶりにでも話すと、皮肉めいた言葉しか出てこないのだけれど、こういうやり方がもしかしたら一番質が悪いのかも知れない。

と、その時ピンポーンとドアベルが鳴った。真理子さんは「ちょっとごめんね」と言って立ち上がり、壁掛けの受話器をとってモニターを見る。
私は紅茶が冷めないうちにとカップを持ち上げて、虎治の寝顔を見つめていた。虎治の周りを舞う淡雪はいい匂いを漂わせて、私に竜也の笑顔を思い出させてくれる。幸せは幸せを運んでくれた。

「あら。おかえりなさい」

真理子さんの言葉は、微笑みとともにきらりと輝いた。解錠のボタンを押す真理子さんの表情はさっきと比べて何倍も明るい。おかえりと言うからには、再婚したばかりの旦那様が帰ってきたのだろうか。
けれど私の予想は、大きく外れた。

「「あ」」

「おかえりなさい、竜っちゃん」

真理子さんの綺麗な笑顔と裏腹に、私と竜也は目を丸くしてお互いを凝視してしまった。3週間ぶりに見る竜也の顔は妙に懐かしくて、さっきまでのもやもやした寂しさが霧のように霧散した。

「来てたのか」

「うん、まぁ。虎治くんに会いに」

苦し紛れに嘘をついてしまった。あまりにも久しぶりに見る竜也の顔は心なしか大人びて見えて、少しどきりとした。

「ちょうどお茶入れたところなのよ。休んでいくんでしょ?」

「いや、荷物取りに来ただけだから」

竜也は後ろめたそうな目線を最後に残して、何も言わずに階段を上っていってしまった。言葉を選び損ねて何も言えないでいる私に、真理子さんの柔らかい視線は優しい。虎治を挟んで、真理子さんと目を合わせた。

「真理子さん、せっかくお茶入れてもらったのに悪いんですけど……」

今日は竜也と一緒に帰りますと、私は口早に告げた。この時の私は一体どんな顔をしていたのか、真理子さんは口元に手を当ててくすりと笑った。桃色の空気で体中を輝かせながら。



いつも通りに隣に並ぶのには抵抗があって、竜也の横顔がぎりぎり見えるくらいまで距離を取って歩いた。竜也は大きなスポーツバッグを肩から提げている。練習の帰りなんだろうか、けれどその目に疲労は色濃くないからさすがだと思う。

この三週間の会えなかった時間が、とても遠くに感じられた。あのやるせなさや寂しさはなんだったんだろう。竜也は今確に私の目の前にいるのに。



「うん。何?」

竜也は前を向いたまま、言葉を探すために少し黙った。私はその綺麗な横顔を見つめたまま待っていた。

「今日、母さんと約束してたのか?」

「ううん、別に。暇だったから押し掛けちゃった」

「受験勉強は?」

「推薦決まったから」

「え? いつ?」

「この間。言ってなかったっけ?」

竜也はきょとんとしたまま、独り言のようにぼそりと「聞いてない」と呟いた。それから気付いたようにあさっての方に視線を投げる。
竜也が私の合格の一報を受けなかったのは、竜也の方から私への連絡を絶っていたからだ。お互いを思い遣る時間を擦り減らしていたのは間違いなく竜也で、罪悪感を感じるのも当然だった。

「合格したこと、言わなかったのは悪かったよ。ごめん」

竜也の横顔に一歩近付いて顔を覗きこむと、竜也はこころなしか顔を赤くして振り向いた。罪悪感を感じているのだろうか、それともこんなに大切な知らせを黙っていたことを自分のことを棚に上げて怒っているのだろうか。分からない。

「竜也は? どうなの? サッカー」

「プロになることにした」

「……は?」

「マリノスからスカウトされて、今度テスト受けるんだ。受かったら、年明けから寮に入ろうと思ってる」

竜也が何を言っているのか理解できなくて、思わず頭を抱え込んでしまった。竜也は確かにプロになることをずっと目標にしてきたけれど、それが今目の前に突き出されると全く現実味が湧かなかった。
竜也は混乱して何も言えない私を見下ろして、くすりと笑った。

「別にそんなに驚かなくてもいいだろ」

「え、でも、急すぎない?」

「そうか?」

「そうだよ。ていうか、どうしてそういうこと勝手に決めるの?」

竜也と私の間には温度差がある。試験管の底には丸い桃色の石が転がったままだ。液体として混ざり合うには、理由を知らなければならなかった。私にとっての竜也と、竜也にとっての私の存在はかけ離れてはならない。

「ちゃんと決まってから言おうと思ってたんだよ」

「私が驚くと思ってた?」

「実際驚いただろ?」

「うん。驚いた」

と、竜也ははははっと短く笑ってさらりとその髪を揺らして見せた。竜也の笑顔を見るのはあまりに久しぶり過ぎて、呆気にとられてしまう。そうだ、この人はこんな風に笑うんだった。こんな風に、私といてくれるんだった。懐かしくて、温かい。桃色の石が、側面から溶けるのが見えた。

「驚かせたかったんだよ」

「なんか、意地悪いやり方だよね」

「本当に悪かったよ。でも忙しかったのは本当なんだ。期末テストもあったし」

竜也をじっと見上げていたら、竜也は呆れたように笑って手を繋いでくれた。竜也の手は冷たい。私の手も、とても冷たかった。

「次のサッカーのテストもあるからテスト続きだね」

「あぁ、そうだな」

「ちょっと早いけど、スカウトが来たことに関して、おめでとうって言っておくことにする」

「じゃぁ、俺も。大学合格おめでとう」

「入団が正式に決まったら、ちゃんとお祝いしよう」

「あぁ、じゃぁ合格祝いもその時にな」

丸い桃色の石はすっかり溶けて、透明な液体と綺麗に混ざり合った。それは蒸発して気体になり、私を取り巻いて幸せを輝かせている。

私は竜也が大好きだ。昔から変わらずに、すっといつも、竜也が大好きだ。それはこんなにも幸せなことだったと、実験結果ははっきりと示していた。



(O-19 Festival提出作品)20071028