11月も末になると日が落ちるのが早い。すでに薄暗い道を早足で歩きながら、
は目的地へ急いでいる。
今日は
にとって特別な日だ。
たとえ、夜の入り口、光が失われて行く心もとなさ、街灯のない住宅街、人通りもなく猫一匹見掛けない寂しさに溢れていても。よく知った道でなくても、不思議と怖くはない。それどころか、胸が沸き立って落ち着かない。心臓の音が耳元で聞こえる。自身の呼吸の音と重なってひどくうるさい。
ひんやりと冷えた空気が肺を震わせている。寒くてしかたがないけれど、そんなこと気にならないくらいにどきどきしている。
夜道に響く足音一つ、軽やかなそれは飛び上がらんばかりに淡い夜の裾を駆けていった。
TWO PIECE
はぁっとため息を吐いたら、目の前でぼんやりと白く染まって消えた。もうすぐ冬がやって来るのだ。それはそうだ、なんせ明日から師走に入るのだから。
竜也は丸い月が黄色く輝く夜空を見上げながら、袖の隙間から入り込む冷気に指先を震わせた。明るいうちならまだしも日が落ちてしまっては、暖をとるのに頼るものがここには何ひとつなかった。
誰もいない寂しい公園だ。塗りの剥げた遊具に、でこぼこの砂場、雑草だらけの花壇、「ここでサッカーをしてはいけません」の看板。竜也は汚れたベンチに座っている。
この辺りに住む子供の遊び場にはうってつけなのだろうけれど、竜也がここへ来る時はあまり健全でない理由を伴っている。つまりは、彼女との待ち合わせだ。寮から歩いて3分という立地条件は夜中に抜け出すにまさにぴったりなのだ。
ただ、竜也は昨今珍しい生真面目さを、本人無意識に売りにしているような人間なので、自ら危ない橋を渡るようなことは決してしない。では、なぜ今日が例外であるのか。理由は明日から師走に入ることに結び付く。
「竜也!」
と、名前を呼ばれて公園の入り口を振り向くと、
が息を弾ませて立っているのが見えた。竜也はベンチから立ち上がる。
は何か小さな箱を大事そうに手に抱えていて、小走りで駆けてきた。
「ごめんね、突然呼び出して」
「いや、別に大丈夫だけど」
そう、この待ち合わせは本来予定されていなかったものだった。竜也は寮暮らしだし、この公園も
の家からは相当の距離がある。平日の夕方から会うには帰りが遅くなってしまって物騒なのだ。
けれど今日のことは
からの誘いだった。ちょうど今朝の通学時間に携帯電話に着信があって、それはなんだか今にも空を飛んでどこかに行ってしまいそうな勢いがあったので、竜也は押しきられる形で待ち合わせに応じたのだった。
「で、どうしたんだ?」
は寒さに顔を赤くしたまま、ふふふと意味ありげに笑った。
「最初に、誕生日おめでとう」
「あぁ、ありがとう」
まさかそれを言いたかっただけではあるまい。それだけなら当初の予定だった電話で事足りるはずだ。プレゼントも次に会う約束をした日に、と
自身が言っていた。竜也は
が次の言葉をつむぐのを待った。
「それから、これ真理子さんからプレゼント。レアチーズケーキ」
は手に持っていた箱を差し出した。受けとると、箱の底がひやりと冷たい。おそらく保冷剤でもいれてあるのだろう。
それにしても、
「これのためにわざわざ呼び出したのか?」
もしそうなら呆れてしまう。母親の料理なら家に帰ればいつでも食べられるし、確かにレアチーズケーキは好きだけれど、誕生日だからどうしても食べたいなんて思うほどの執着はない。
「違うの。これはおまけでね、メインは別」
は口元に指先を当てて、心底楽しそうに笑っている。これは何かを企んでいる顔だ。期待していいのかどうか。
は人を驚かせるのが得意だけれど、可能性は五分だ。
「もったいぶるなよ。気になるだろ」
竜也が急かすと、
はおもむろにポケットから綺麗に折り畳んだ白い紙を取り出した。差し出されたので受けとるが、竜也はすぐにそれを開く気にはなれない。もしかしたらなにか不思議な物体が飛び出してくるかもしれない。
の顔をうかがう。相変わらずの笑顔だ。早く中を見てと言われているような気がして、竜也はおそるおそるそれを開いた。
紙は、診断書だった。記された名前は桐原真理子。発行された病院は総合病院の産婦人科。つまり、竜也の母親の妊娠を知らせる診断書だった。
「おめでとう、竜也」
笑い声を漏らしながら、
は心底幸せそうに言った。 竜也はすぐに返事が返せない。字は読めるのに内容が理解できない。
妊娠? 母さんが? 子どもができた? 誰の? いや、再婚した父親以外にいるはずはないが。……妊娠?
頭の中が真っ白になって、指先がぴくりとも動かない。どうしよう、と思う。
「竜也? ねぇ、大丈夫?」
に肩を叩かれて、竜也はようやく我に帰った。
「……あぁ、大丈夫だけど……」
まさか、たちの悪い冗談ではないだろうか。
ならやりかねない気がするが、いや、けれど嘘もここまでくるとさすがに酷すぎる。
だってそんなに面倒な性格はしていないし、仮にそうだとしてもこの笑顔の意味が分からない。
「これ、……本当なのか?」
「信じてくれないの? せっかく診断書のコピーまで持ってきたのに?」
「いや、そういうことじゃなくて。急すぎるだろ? いくらなんでも」
「急じゃないよ。真理子さんが再婚してもう半年だよ? 今妊娠二ヶ月だっていうし」
「……いい歳して何やってんだあの親父……」
竜也はなんだか力が抜けてしまって、肩を落としてぐしゃりと前髪を掻いた。どうしよう、と思う。今ここで自分が何をできるわけでもないのに、どうしよう、としか思えない。どうしよう、どうしよう。
「夫婦円満でいいことじゃない」
「あぁ、まぁ、そりゃぁな」
「来年にはかわいい妹か弟ができるよ。どう? お兄ちゃんになる気分は?」
に言われて、竜也ははっとした。そうか、母さんに子どもができるということは自分がその兄になるということなのだ。そんなこと全く実感が沸かない。そんなことになったらどうすればいいのだ。
「……気が早いだろ、『お兄ちゃん』は」
「そう? 私はもう『お姉ちゃん』の気分だけど」
「いや、早いだろ。どう考えても」
少し口調を強めてそう言ったら、
は声を出して笑った。何がそんなに楽しいのか竜也には分からない。こっちは混乱して頭の中がぐちゃぐちゃだというのに。口から出るのは溜め息ばかりだ。
「ねぇ、竜也」
と、
は竜也の服の袖をつんと引っ張った。何かと思って振り向いたら思いの外近くに
の顔があって思わずたじろいだ。馴れていないわけではないけれど突然すぎだのだ。
「とりあえず、ケーキ食べない?」
「……は?」
予想外の言葉に、竜也はつい脱力してしまう。人がこんなに混乱しているところにそうくるのか。
戸惑う竜也の目の前で、
は相変わらず笑顔だ。
「今からそんなに考え込んでも仕方ないでしょ。大丈夫よ、そんなに心配しなくても」
は竜也の手からケーキの入った箱を奪い取って、有無を言わさず開封した。中にはしっかり二切れのレアチーズケーキが並んでいる。
は元よりここで二人、食するつもりだったらしい。
「はい。改めまして、誕生日おめでとう」
両手でケーキの箱を捧げ持つようにした
は、少し大袈裟な仕草で首を傾げて見せた。
なぜ、
がこんなに平気な顔をして、真理子の妊娠を受け止めているのかは全く分からない。けれどここまで素直に歓びを表現してくれる
を見ていたら、自分の動揺がとても馬鹿馬鹿しく思えてきてしまった。そうだ、一般的に言えば母親に子どもができるなんて、喜ぶべき知らせのはずだ。何を無意味に考え込んでしまっていたのだろう。
はこんなにも笑顔でいてくれているのに。この寒い夜に、走ってここまで来てくれたのに。
『どうしよう』と迷うのは止められないし、この先答えが出るとも思えない。けれど今は、
と二人でケーキを食べよう。
「……あぁ、ありがとう」
もう一度ケーキの箱を受け取って、竜也は苦笑しながら
の額にキスをした。
20071130