注意:「もしもたったひとつだけ願いが叶うなら」という連載の世界観で書いています。夢主は渋沢克朗の妻です。








 ひとの縁というものは不思議だ。

 中学時代、あんなに毎日一緒にいたサッカー部の仲間達。今は年に一度連絡を取ればいい方。一方で、今年の春に入社したばかりの部下とは平日も土日も構わず、仕事のやりとりをしない日はない。すっかり記憶から抜け落ちていたひとが、ある日突然ひょっこりと目の前に現れることもある。ひとの縁は、不思議だ。

「あの、すいません。駅はどっちの方角でしょう?」

 青信号が点滅する横断歩道の手前で足を止めた三上に声をかけてきたのは、ちょうど横断歩道をこちら側に渡りきったばかりの女性だった。点滅する信号を慌てて走っきったんだろう、髪が乱れていて、全体の雰囲気が気忙しい。

 三上は思わず眉をしかめて答えた。

「駅なら、この信号の向こうですよ。渡っちゃだめです」
「えぇ!? そうなんですか!? しまったぁ」

 女性は情けない顔をしながら、くるりと体を半回転させて信号を見上げた。片側三車線の幹線道路で、信号の色が変わるまでは時間がかかる。女性は手首の内側に向けた腕時計を見つめ、「ぎりぎりになっちゃうな」とひとりごとを言った。

 生成り色のジャケットにシフォンスカート、外回り中のOLを絵に描いたようなスタイリングだが、ストッキングに包まれた足は、白いランニングシューズに吸い込まれている。肩掛けにしたトートバッグは大きく膨らんでいて、その中にもう一足、ヒールの高い美しいパンプスを用意していることが容易に想像できた。

 三上の同じ部署の女性社員も、時と場所で靴を履き替える習慣がある。アイスピックのように尖ったシルエットのピンヒールで出勤してきたと思えば、オフィスではフラットなサンダルをはいてキーボードを叩く。それを見るたび、女は大変だな、と三上は他人事のように思うのだった。

「あの、すみません、間違いだったら大変失礼なんですが、もしかして……」

 女性が三上を見上げてぼそぼそと言う。

 まだ何か用か? 三上は夏場のハエを追い払う時のような気持ちで振り返り、隣に立つ女性を見下ろした。

 三上は見知らぬ人間に声をかけられてすぐに話を弾ませるような、軽薄な男ではなかった。むしろそういう男を見ると腹の立つ性分で、今やサッカー日本代表の先発ポジション常連となった藤代誠二は学生時代の後輩だが、あのように好みの女を見つけるとひょいひょい声をかける薄っぺらい人間を見ると無性にいらいらしてしまう。それと同じくらい、こんな真っ昼間から、平気で見知らぬ男に声をかける尻の軽い女も嫌いだった。

「もしかして、三上先輩じゃないですか? 三上亮先輩」
「あぁ?」
「あの、覚えていないかもしれませんけど、私、です。

 そう名乗った女性は、乱れた髪を撫でつけながら、とても控えめに微笑んで見せた。

 その細い目尻の線に既視感を覚え、三上ははっとする。

 学生時代、親しく付き合った女生徒の数は少ない。はそのうちのひとりだ。サッカー部の後輩だった藤代と同級生だったことが縁だが、その程度の繋がりしかなかった彼女と記憶に残る思い出があるわけではない。

 中学生の三上にが残したものは、強く激しいのまなざしだ。

「あぁ、お前か」

 三上がそういうと、は胸に手をついてほっと肩を撫で下ろした。

「良かった、勘違いじゃなくて。こんなところで会うなんて、びっくりしちゃって」
「それはこっちのせりふだよ。何やってんだ?」
「仕事の打ち合わせで、この辺りには初めて来たんですよ」
「それで迷ってたのか」
「はい、迷っちゃいました。三上先輩は? この辺りにお勤めなんですか?」

 三上が務めているビルを指差すと、はビルを仰ぎ見て、しみじみと感嘆のため息をもらす。

「すごいですね、こんな大きな会社」
「別に、ただの勤め人だよ」
「でも、こんな大企業、ひと握りの人しか選ばれませんよ」
「おだてたって何も出ねぇぞ」
「そんなつもりじゃありませんよ」

 車道の信号が赤に変わって、幹線道路を行き交う車が鼻先を揃えて止まる。それを見計らったように歩行者用の信号が青になった。視覚障害者のための電子音声が鳴り響き、それに合わせて人波が一斉に動き出す。

 三上は自然と、と歩調を合わせるかっこうになった。

「お会いするの、いつぶりでしたっけ?」

 が言う。

「確か、結婚式以来じゃないか?」
「じゃぁ、もうずいぶん前ですね、式ではあまりお話できませんでしたから、こうして話すのは中学生の時以来かも」
「言われてみれば、そうかもな」

 ふと何を思ったのか、が突然くすくすと笑い出した。そのせいで前方不注意になって、正面から歩いてきたサラリーマンとぶつかりそうになる。三上はとっさにの腕を引いてかばった。

「おい、気をつけろよな」
「ごめんなさい。昔のことを思い出したらおかしくなっちゃって。私、中学生の頃、三上先輩のことすっごく怖かったんですよ」

 そう言われて、三上の脳裏に、あのまなざしが蘇ってきた。

 あの頃のは、狐を目の前にして震え上がる兎のようだった。一体俺が何をした? そう問いただしたくなるほど、100%の警戒心を身にまとってびくびくと震えていた。今なら、その理由がなんとなく分かる。

「知ってたよ」

 三上は続ける。

「俺は昔っから人相悪いかったからな。特に女子はびびるんだ」
「ごめんなさい。悪気はなかったんです」
「昔の話だろ、気にしてない」
「でも、不思議。先輩のことずっと怖かったのに、今は普通に話せてる。話せてますよね? 私」

 ぐいっと顔をのぞき込まれて、三上はぎょっとした。の顔立ちは、子どもの頃のおもかげを確かに残してはいるものの、年相応に大人びている。薄く化粧をほどこして艶っぽい頬、しっとりとした唇が目の前に飛び込んでくると、我知らずどぎまぎしてしまう。三上は気を引き締めてさっと前を向いた。何を動揺しているのだ、もう中学生の子どもではないのだ。

「まぁ、それだけ成長して、大人になったってことなんだろ」

 三上は投げやりに言ったつもりだったのだが、は誇らしげだった。

「そう言ってもらえると嬉しいです。私、子どもの頃は、30代ってもっと大人だと思ってたんですけど、でも実際なってみると全然想像と違くて、いつまでも子どもっぽさが抜けなくて、こんな調子でいいのかなーって思ってたんですよね」
「それは俺だって思うよ。誰でも考えることなんじゃねぇのかな」
「三上先輩でも思うんですか? ばっちりスーツ着こなして、あんなに大きな会社に勤めていても?」
「見た目なんてあてになんねぇぞ」
「そういうものですか」

 そういうものだ。子どもの頃に想像した30代は、中学時代の後輩と再会したくらいで動揺したりしない。

 三上はとっさに話題を反らす。

「そういや。渋沢、元気か? この間の試合で膝やったんだろ? ニュースで見たぞ」

 渋沢の名を出すと、の笑顔が柔らかくほころんだ。

「あぁ、大丈夫ですよ。軽い捻挫で、今は通常メニューに戻ってます。次節は先発決まったって言ってました」
「そうか、もう歳なんだからあんま無理するなって言っといてくれ」
「歳って、三上先輩と同い年ですよ」
「現役の選手としては十分ジジイだよ。長生きしろよって言っとけ」
「あははっ! 伝えておきます」

 話は尽きず、気がつけば三上は駅までを送り届けていた。ここまでするつもりはなかったのだが、驚くほど話が盛り上がってしまった。中学時代も、三上とがこんなに長く話し込んだことはない。

 時の流れは、さして親しくもなかった人間同士を簡単に近づけてしまった。ひとの縁というものは、本当に不思議なものだ。

「三上先輩は、これから外回りですか?」
「まぁな、お前は?」
「私は会社に戻ります。あの、もし迷惑でなければ、今度お茶でもしませんか? 渋沢と三人で」

 三上はきょとんと目を見張る。

 は子どものように笑ってスマートフォンを取り出した。

「私と三上先輩が繋がってるって知ったらきっとびっくりすると思うんですよね」
「けど、あいつ忙しいんだろ? 都合合わないんじゃないか?」
「365日、1日も合わないってことはないと思いますよ」
「もしかして、あいつをびっくりさせようとしてるのか?」
「ふふっ、見てみたくありません?」

 渋沢は日本代表のキャプテンも務めるほど信頼の厚い男だ。徹底的に自己管理された生活や、ものさしではかったような生真面目な性格はちまたでも有名で、チーム内では、ちょっと真面目なことを言うと「渋沢か!」と突っ込みが入るのが定番になっているらしい。少しのことでは動じないどっしりした態度は、日本代表キーパーとしてこれ以上なく頼り甲斐がある。

 そんな渋沢の完璧な表情を崩すことができたなら?

 それを想像すると、無性にわくわくしてくる。も三上以上にわくわくしているようで、すでに必死で笑いをこらえている。

 三上はスマートフォンを取り出すと、QRコードを表示してに差し出す。それを読み込むと、のスマートフォンに三上の連絡先が表示された。

「ありがとうございます。連絡しますね」
「おう」

 ホームに電車が滑り込んでくる。強い風に煽られの髪が激しく踊る。そういえば、昔と比べてずいぶん髪が伸びた、今更それに気づいた三上は、時の流れを感じてまぶしいような気分になった。

 列車がレールを滑る轟音に負けじと、は人目もはばからずに声を張り上げる。

「あんな道端で偶然に会えるなんて! なんだか奇跡みたいですね! 会えてよかったです!」

 ひとの縁とは、全く、本当に、不思議なものだ。子どもの頃、ほんの数回言葉を交わしただけのひとと、まるで運命のいたずらのように道端で再会することがある。駅へ向かう道すがら、ほんの数分の会話が単調に繰り返すだけの毎日をほんの少し軌道修正した。その先にあるのはきっと、懐かしさだけではないんだろう。

 三上も騒音に負けじと声を張り上げて笑った。

「連絡、忘れんなよ!」

 電車に乗り込んだが、窓越しに手を振っている。夏にテレビでよく見る、遠くに住む老いた家族と新幹線の窓越しに別れの挨拶を交わす子どもの姿に、の姿はよく似ていた。







20200803